帝国の薔薇
それを見送った後、ロイは、ブリッグズの砦にほど近い小さな街を親指で示した。町中で大丈夫なのか、とエドワードは思ったが、ロイは、特に気負うことなく歩き出した。仕方なくその後ろについて歩きながら、部下達の無事をエドワードは祈った。
そこは小さな町だったが、思ったよりは人がいて、活気があった。砦に近いせいもあるのかもしれない。
適当な宿屋に部屋を取る間、エドワードは頭から外套をかぶらされていた。金髪が目立つというよりも、女であることが目立つのだ。
ようやく部屋に入って外套を取り、エドワードは、久しぶりに家の中で過ごすな、と感慨深く思った。宮殿の自分の部屋より格段に狭い部屋だったが、それでも、風は入らないしベッドもあるし、ストーブもあった。問題は、ベッドは二つあるが、それでも同室だということだろうか。さすがのエドワードも一瞬躊躇した。しかし、今は潜伏中なのだから、部屋は一緒の方が都合がいいのは当然で、だからエドワードはぐっと我慢して口を閉ざした。
そしてかわりに、そうそうに、ベッドのひとつに身を投げ出す。そうして初めて、自分がものすごく疲労していたことに気づいた。
「…姫。寝るなら布団をかぶった方がいいと思うぞ」
目を閉じていたら、困ったような声がして目を開けた。するとそこにはこちらを覗き込む黒い目があって、なぜだかエドワードは慌ててしまった。そんなことは今までもしょっちゅうあったことなのに、だ。
するとロイは、小さく笑ってエドワードの髪をかき回した。
「怖がらなくても平気だ。何もしない。さて、私は何か食い物と情報を調達してこよう。姫はここを動かないでくれ」
「…オレも行く!」
「だめだ。許可できない」
「なんで…」
「危ないからだ」
「そんなの、ここにいたって同じかもしれないじゃないか!追っ手がこの町の中うろうろしてないなんて保障、ないだろ?」
一歩も引かないぞ、という態度で臨めば、ロイが困ったように溜息をついた。そして、エドワードのベッドに腰掛ける。
「姫。頼むから言うことを聞いてくれ。町の中が見たいのなら、今でなくて、都に帰った時にでも連れて行くから」
「都なら自分ひとりで歩ける。あと、姫っていうな」
「…そういえばそうだったな。だが、とにかく聞き分けてくれ。今は本当に、そういう事態じゃないんだ」
「…」
ロイは苦笑して、そっと、白い頬に手を伸べる。驚いたのはエドワードだった。
「姫。お願いだ。言うことを聞いてくれ」
「………」
黒い瞳に瞬きもせず見つめられて。そうして真剣に懇願されて、…不覚にもエドワードは頬を染めてしまった。
「…わかってくれるな?」
そうして念を押されて、ついつい頷いてしまったのだった。
すぐに食えるものや適当な着替えを買いながら(今はハボックが調達して来てくれた適当な服を着ていた。逃亡する際のあの赤い軍服は大変に目立つので、とても着れた物ではなかった)、ロイは、ブリッグズの砦のことがどの程度町中に伝わっているのか、実際に北の侵攻はどの程度なのかを中心に情報を集めていった。
そしてわかったのは、皇太子率いる遠征軍が砦に入ったことは知られていないこと、北の人間でここまで来るのは主に商人で、兵士ではないことなどだった。どういうことかと思ったが、恐らく、キンブリー達は「平和的に」北と友誼を結んでおり、そのため、兵士ではなく商人が入ってきて、徐々に融和を広げていこうとしているのだろう。だとしたら既に北の支配は始まっていると見ることも出来る。キンブリーの裏にいる人間が誰だかわからないが、母国を売り渡すとは見下げ果てた根性だ。
「…中央の様子が気になるな」
北の動きに呼応して中央でも事が起こっているのではないか、とロイは思案する。しかしどの道、連絡をとるにしても、現状を打破しないことには何もできない。今は目の前の問題を片付けるのが先だ、とロイはかぶりを振った。
部屋に戻ると、エドワードは不貞腐れた顔のままベッドにもぐりこんでいた。けれど宝剣をしっかりと抱いている所はまずまずだった。
宝剣は、逃げる時エドワードの腰に佩かれていた。だからこそ取りこぼさずに持って逃げることが出来た。一緒に持ってこれたのは幸いだった。これこそは、彼女の身分を証するものだったから。
「…」
眠る幼い横顔には隠しようのない疲労が見えて、かわいそうなほどだった。哀れまれることなど本人がよしとしないだろうが、それでもだ。
自分がこのくらいの年の頃には、とロイは思った。こんな風に一途にいただろうか、と。もう随分昔のことのようで、まるで思い出せもしないのだけれど、エドワードを見ているとそんなことを思ってしまう。
エドワードのベッドの端に腰を下ろして、眠る顔、その前髪をゆっくりとかきわけてやる。普段横になるのに比べて格段に粗末な、固いベッドだろうに、不平の一つも言わなかった。思えば昨夜の野宿にだって、彼女は気丈にも何の文句も言わなかった。なかなかできることではない。いくら、日ごろから近衛と一緒の訓練をこなしているからといってもだ。
「…もう少しの辛抱だ。殿下」
近衛は彼女の一部のようなものだ。せめてそれだけでも彼女に返してやらなければ、とロイは小さく笑った。
寒くなって目を覚ましたら、ロイが帰ってきていた。気恥ずかしくて顔をそらしたら、起きたか、と声をかけられる。渋々「うん」と答えたら、もう少し寝ていてもいいぞ、と返された。それが悔しくて、もういい、起きた、と答えてずかずかロイの方へ歩いていけば、彼は何かを書いていた。手紙かもしれない。
「…何書いてるんだ?」
「知り合いに手紙だ」
「知り合いって?」
「知り合いは知り合いだ。さて、起きたなら食事にするか?宿に言って運ばせるが」
「…オレには食べ物出しとけばいいって思ってんだろ」
じっとりと睨みつけたら、意外そうな顔をしてロイが瞬きした。
「そんなことはないぞ。どうした?」
「…おまえは子供扱いばっかりだ。オレだって、皆のことが心配なのに。オレだって、なにか…」
うまく言えなくてもどかしいエドワードを、ロイはしばし見つめていたが、…立ち上がると、震える肩をそっと抱き寄せた。エドワードは閉じ込められた腕の中で息を飲むけれど、もう遅い。
「どうした。姫。落ち着きなさい」
「…オレ、…オレは」
ぽんぽんと背中をなでる手の大きさも暖かさも、涙が出るほどうれしいものだった。エドワードはぎゅうとロイにしがみついて、顔をその胸に押し付ける。
「…姫。そんな風に泣いてくれるな」
「…泣いてない」
「そうか。ならそういうことにしておこう」
「泣いてないってば!」
ロイが微かに笑ったようだった。と、思ったら、体がやんわりと離されて、すっかり水分の滲んだ目元をやさしくぬぐわれる。
「大丈夫だ。大丈夫」
「…なにが」
「きっと全部うまくいく。姫が悲しむことは何もない」
「…オレは、誰がいなくなってもきっと悲しい」
真っ直ぐに見上げて訴えれば、ロイが瞬きする。
「どんな悪いヤツだって。死んじゃえばいいって、思えない。…覚悟を決めろってマスタングは言ったけど、…オレにはよくわからない」