帝国の薔薇
地下牢から続く階段を一気に駆け上ってきた一団が上げる凄まじい気炎に、キンブリーはよろめいた。最悪だった。そしてその先頭にいるのは、吹雪の中に落ちたはずの皇太子とその副官だった。副官の青い服を見れば、彼が傭兵を装って中に侵入したことが見て取れる。恐らく内部には、キンブリーの関知しないつながりがあったのだろう。今さら悔しがっても詮無きことだが、それでも歯軋りが止まらない。
「…キンブリー!」
と、先頭にいた少女がこちらに気づき、金色の目を吊り上げて怒鳴った。その手にあるのは赤い宝剣だ。幼いものが価値も知らずに、と笑いが止まらなかったが、とりあえずキンブリーは広間に戻った。倒れているレイブンを邪魔とばかりに蹴飛ばすと、広間で相手を待つ。両手を重ねて、いつでも攻撃できるように。
「キンブリー!逃げるな!」
部屋を開けるなり爆発が襲ったが、あらかじめ予想していれば避けられないものでもない。ドアを開けざま斜めに飛んで攻撃を避けて、そのままエドワードは走っていく。少なくとも予備動作として手を合わせるという仕種が必要なことはわかっていたから、それさえさせなければいいのだという理解があった。
エドワードの後ろからはロイもまたつめてきていたのだが、エドワードは今目の前のキンブリーに集中していた。
「動くな、キンブリー!」
だん、とエドワードは宝剣でキンブリーの服を縫いとめた。乱暴な扱いにも宝剣はびくともしない。しかし、斬り捨てなかった皇太子に、キンブリーは笑う。
「お甘い殿下だ。これがあの雌虎陛下なら私の首などすぐにも跳ねていましょうぞ」
「うるさい。殺すのなんていつでもできる」
エドワードは手の震えを隠しながら気丈に言い放った。
「殿下」
エドワードの後ろから歩み寄ってきたロイが、その手をそっと上から握る。震えを感じてわずかに眉根を寄せたものの、何も言わず、そっと宝剣を外させ、自らの剣、その切っ先をキンブリーの喉許に突きつける。その表情にはおよそ容赦というものがなく、キンブリーの饒舌な舌も凍った。
「貴様ごときの血で殿下の尊い御手を汚させるわけにもいくまい。どうしても死にたいのなら私が今この場で首をはねてやるが、どうする」
「…は、尊いとはまた、茶番ではありませんかな?」
何が、と問い返すこともなく、ロイは、さらに切っ先をキンブリーの喉許に近づけた。先端が喉の皮膚に触れ、赤い線が走る。エドワードは無意識のうちに喘いだ。誰かがこうやって剣を突きつけられているところなど、見たことがなかったのだ。
「…茶番と思うなら勝手にしろ。貴様のような茶番の塊に何を言われたところで痛くも痒くもない」
エドワードの様子に気づいたロイが、キンブリーを思い切り蹴飛ばし、仰向いた掌の中央に剣を差した。そこには何某かの紋様が描かれているようだった。悲鳴を上げてのたうつキンブリーには、とりあえず再戦の意思はなく、駆けつけてきた兵士達がさらにそんなキンブリーを押さえつけて縛り付ける。そこまで見届けて、ロイは軽く溜息をついた後主を振り返った。そこには、血の気を失った顔をしたエドワードがいて、ロイを食い入るように見ていた。
レイブンとキンブリーに監視をつけ、とりあえず砦の中の制圧をホークアイ以下近衛師団の連隊長級に任せると、ロイはいい加減火傷の手当てのために下がった。本人的にはまだ油断ならないので先頭に立っていたかったのだが、主に懇願されては無碍にもできない。
その主はといえば、こちらは、気丈にもホークアイ達と砦の中をあちこち動き回っているらしい。あちらこそ休ませなければ、と手当てを受けながらロイは思う。全く、あの少女は頑張り屋すぎて困る。
「……我慢しなくてもいいものを」
さきほど握りこんだ手の震えを思い出し、ロイは苦笑した。その後の、あの、青ざめた顔。ロイを恐れるような。それでも、気丈に、ロイの手を握ると医師に預けて行ってしまった。
あんな風に背負い込まなくてもいいのに、とロイは思う。そもそもあんなに彼女が責任を感じる必要があるのだろうか。女帝の気まぐれで後継者に指名され、近衛師団を任され、…そこに彼女の意思が一度としてあったのだろうか。それでも、エドワードは、不満を並べるより先に、努力する。
「…自分が情けなくなるな…」
手当てを終えた部屋の中、ロイはぽつりと呟いた。今でこそ違うが、恨み言ばかりを連ねていた自分とは大違いだと思った。
「……」
ロイは上着を羽織ると、適当に身繕いをして立ち上がった。似合うといわれた青の軍服を着たのは特に考えあってのことではなかった。
歩き出して最初に行きあったのはフュリーだった。彼は目を瞠ると、もうお加減はよろしいんですか?と尋ねてきた。一体どんな重傷者の扱いになっているのかとロイは訝しんだが、面倒なので、ああ、もうすっかり、とだけ応えておいた。そうしてエドワードの行方を尋ねれば、キンブリー達を捕らえてもなぜか軟禁された部屋から動こうとしないマーロウ将軍の許にいるという。あの頑固親父か、とロイは顔をしかめた。
「ホークアイあたりも一緒か?」
「いえ、ホークアイ殿は砦の制圧でまだ。ほとんど制圧したのですが、まだ一部が立て篭もっておりまして」
「なるほど。外には出て行けないしな」
案の定夜になって外は吹雪いていた。厚い壁に遮られてもなお強い風の音にロイが首を向ければ、ええ、とフュリーは頷いた。
「私は殿下の所に向かおう。頑固親父の相手は骨が折れるからな」
「頑固…」
「ところで、頼みたいことがある」
「はい。何でしょうか?」
「確か、北には、他より先に導入した連絡設備があったはずなんだが…」
「…電報のことですか?」
女帝の中では北はとても警戒すべき相手で、まだまだ世の中には出回っていない緊急連絡用の設備を真っ先にこの砦に投入していた。ロイはそのことを思い出し、フュリーに告げたわけだが、特に北の出身でもないはずの彼はしっかりそのことを知っていた。
「よく知っているな」
「自分はああいった機械に興味がありまして。元々は工兵隊にいたのですが」
それでか、とロイは頷いた。
「それはちょうどよかった。使えるか?」
「触ったことはありませんが、説明書は読んだことがあります。多分使えると思います」
「そうか。では、頼む。中央と連絡を」
「はい。承知しました」
「こちらの状況を伝えて、あちらで何も起こっていないかを探り出してくれ」
「…何も?」
そこでフュリーは瞬きした。意外なことを言う、と思ったのだろう。だがロイはそれ以上説明することはなく、頼んだぞ、とだけ言って、頑固親父と戦っているであろう姫君のところへ向かって歩き出した。
頑固さだけならいい勝負なんだが、と思いながら。
部屋の前につくと、だんまりを続けるマーロウと、結局言葉を出し尽くしてしまって黙り込むエドワードがいた。呆れた気持ちになりながら、ロイは、軽くノックをして部屋に入る。ドアは開け放たれたままだった。
「いい加減に腹が減らないか」
砕けた調子で声をかければ、エドワードと老将軍が揃ってロイを見た。
「マスタング、怪我は…!」
「私は頑丈だと前に言わなかったかな。もう十分手当てした。平気だ」