帝国の薔薇
肩を竦めて主に答えた後、ロイは、頑なな将軍に向き直る。
「マーロウ。意地を張るのもそれくらいにして、とにかく一緒に食事でも取らないか」
「…貴方様には誇りがないのか」
と、ようやく口を開いたマーロウから飛び出してきたのは、そんな言葉だった。
「ご自分こそがこの国の正嫡であらせられるではないか!それを…!」
勢いある言葉に、エドワードの肩がぴくりと震えた。ロイは眉をひそめ、困ったように苦笑した。
「それは過去の話だ。私自身、そんなものは望んでいない」
「納得がいかぬ!今上陛下は自らの野心のために叔父御を手にかけたのだぞ?!」
「マーロウ!」
エドワードを慮って、ロイは語気を強めた。
「殿下!」
しかし一度口火を切ったことでマーロウの勢いは止まらなくなったらしい。唖然として固まっているエドワードににじり寄る勢いで、マーロウは続けた。
「この方こそ、本来の、正統なアメストリスの…!」
「マーロウ」
ロイが手を伸ばし、老将軍の肩に触れた。そして黙って首を振る。
「…私はもう本当にそんなものは捨てたんだ。頼むから、わかってくれ」
「しかし…」
「今は…」
ロイはそこで、途方に暮れた顔をしているエドワードを見て、小さく笑った。
「ただ一輪の薔薇のためにだけある。私の命も、剣も、誇りも。それで十分なんだ」
達観したような表情を見て、老将軍は諦めたように座り込んだ。いくつも年をとったように見えたが、エドワードには何も言うことができなかった。
マーロウの部屋から帰る道すがら、ロイは、ぽつりぽつりと話してくれた。本当は都に帰ってからと思っていたんだが、と注釈をつけつつ。
「私の父親は今の女帝陛下の叔父でな。前の陛下が亡くなられた時、本来であれば彼が跡を継ぐことになっていた」
「…じゃあ、マスタングは…陛下の従兄弟?」
「そういうことになるか」
ロイは肩を竦めて認めた。
「だが、結果を見れば、あの雌虎陛下が女帝になって、この国にとってはよかったんだろうと思っている。父が跡を継いだとしても、特に変わり映えのない国だったろうから」
「…でも…」
「…さすがにな、昔は思った。父が死んでいなければ今頃は、と。だが、すぐに気づいたよ。意味の無いことだと」
ロイは立ち止まり、自分を真っ直ぐに見上げている姫を見つめた。
「そう思えるようになるのには時間がかかった。長く自棄になっていたこともある。でもな、殿下」
「…?」
「殿下の傍で過ごすうちに、本当にどうでもよくなったんだ」
ロイはゆっくりと膝をつき、下からエドワードを見上げた。
「私に生きる意味をもう一度与えてくれて、ありがとう」
頭を垂れて、エドワードの服の裾を持ち上げて口付ける。その仕種に嘘はなく、エドワードは泣きそうになった。
フュリーからの報告で、中央でも混乱が起こっていると知れたのは、制圧が済んだ夜半のことだった。
ロイは近衛師団とこちらに従う意思を見せた中央軍の兵士を集め、エドワードの傍らで彼らに告げた。
「どうやら北と結びついていたのは、中央の老獪な御仁らしい」
ざわめく兵士達に、ロイは続けた。
「だが、陛下は未だ健在だ、恐れるるに足らず。とにかく、今は、北を建て直し、すぐにも引き返すべきだろう」
本当は女帝の行方は一時不明と伝わってきていたのだが、その部分は伏せてロイは告げた。そして、エドワードを促す。
さすがに疲労の色が濃い少女だったが、気丈にも顔を上げ、兵士達を見回した。
「皆。もう少し頑張ってくれ。わたしに力を貸してほしい」
必死さの見えるその懇願に、否やを唱える者などいようはずもなかった。兵士達の「殿下万歳!」という声を受けながら、血の気の引いた顔をしながらも、エドワードは力強く手を振った。
その夜、兵士達の前を下がると、さすがにエドワードも緊張の糸が切れたのか、ふらっと倒れた。それを受け止めて、ロイは恭しく抱き上げる。その仕種を見れば、彼がどれだけその主を大事にしているかわかろうというものだった。普段の口調は不遜なものだが、真情は姫の上にあるのだろう。
出立の朝が来るまでの暫しの時間、エドワードは泥のような眠りに落ちていったのだった。