帝国の薔薇
「…去年はぐれました。ウロボロスの追っ手に追いつかれて。で、逃げているところをブラッドレイ氏に引き取られて、今に至る、というわけです」
「…なかなかに波乱万丈な人生だな」
感心するような目を向けたら、よしてください、とアルフォンスが嫌そうな顔をする。
「…で、おまえたちは一体何で逃げていたんだ?」
女帝はじっと甥の目を見ながら問うた。今は「甥かもしれない」とは思っていなかった。これは甥に違いないだろうと思っていた。
「研究成果を持っていたんです」
「…研究?」
「ええ。武器を必要としない攻撃とか、そういったものについての、ね」
オリヴィエは不思議そうな顔をして瞬きした。
「そんなものがあるのか?」
「あるというか、出来てしまった、というべきかもしれません。それで父はウロボロスに狙われて…母が殺されたのも、そのせいだろうと父は言っていました」
その発言に、オリヴィエの青い目が見開かれ、急激に怒りがこみ上げてきた。
「…なんだって?」
地を這うような低い声にアルフォンスは瞬きしたが、もう時既に遅し、だ。
「ですから、父の研究のせいで、あの事件は起こったのかもしれない、と…」
ふふ、と再び低い笑い声が聞こえてきて、アルフォンスは無意識に一歩下がった。しかし女帝の腕が動くほうが早かった。
「なるほどな、そういうことか。なら、遠慮なくウロボロスを潰して、その後ホーエンハイムも殴ろう」
「…え?」
「長いこと私のせいで姉は死んだと思っていた。だがそうではなかったということだろう」
「…まあ、そうかもしれませんけど…」
にやり、と女帝は獰猛な笑いを浮かべた。
「なら、決まりだ。…目標ができるといいな、今はすぐにも動き出したい気分だ」
「ちょ…っ、陛下!」
アルフォンスが慌てた声を出したのは、女帝が言いながら機嫌よく服を脱ぎだしたからである。一体なんだ、と目を剥いたアルフォンスに、女帝は意地悪げに笑う。
「むしゃぶりつきたくなるようないい女だろうが、私は」
それ以前に怖いです、とも言えずとりあえず目をそらすアルフォンスに、女帝は独り言のように続ける。夜着から、動きやすそうな男の衣装に着替えながら。
「…こんなところでくすぶっていて、舐められてたまるか」
迫力ある言葉に、アルフォンスは逃げ出すこともできず、ただ部屋の隅にたたずんでいた。こんな叔母と四六時中一緒にいたという姉に、少しだけ同情しながら。
初めは先頭に立って騎馬を駆っていたエドワードだが、一度休憩時に鞍から貧血を起こして滑り落ちるというのをやらかしてからは、渋々馬車に揺られていた。
「…皆心配性なんだ」
エドワードの監視役という名目で乗り込んでいるのは、乗馬があまり得意ではないというフュリーだった。彼は困ったように笑って、でも、皆姫が大事なんです、わかってあげてください、と言った。そんな風に言われてしまうとそれ以上むくれることもできず、エドワードはクッションの上で転がった。道程は既に帝都まで二日というあたりまで迫っており、いかな急行軍であるか知れようというものだ。実際行軍の先頭と最後尾には時間にして一日の距離があり、ロイが軍を急がせているのは確かだった。案外、それを考えると、エドワードを馬車に押し込めたのは、心配もあるにはあるのかもしれないが、足手まといと判断したからかもしれない。そう思うとかなり面白くなくて、エドワードはますますむくれた。自分だって、頑張っているのに。
「…殿下は、副師団長閣下の、殿下が倒れたときのお顔を見ていないから」
と、くすくすと笑いながらフュリーがそんなことを言い出した。それに興味を惹かれて顔を向ければ、青年は内緒ですよと前置きして続きを聞かせてくれた。
「あの、いつでも飄々として感情の見えない方が。殿下が倒れたときばかりは、本当に焦った顔をしておられたんですよ」
「…嘘」
「嘘じゃありませんよ。本当に閣下は焦っていて。ホークアイ殿にたしなめられたくらいですから」
「…リザに?なんで?」
「貧血ですから動かさないでください、と。余計殿下を悪くするおつもりですか、と。言われて、ぴたりと動きが止まった閣下はなかなか面白かったですよ」
にこにことそんなことを言われ、エドワードは複雑な気持ちになった。自分が倒れたくらいでロイがうろたえるというのは、ちょっと想像が付かなかったので。
「…近衛の人たちも、殿下がいらっしゃるから、こうやって頑張っているんだと思いますよ」
「…そうかな」
「ええ。皆、殿下が大好きですから」
屈託ない笑顔で言われて、エドワードは頬を染めた。そんな風に言われたのは初めてだったので。
「ですから、退屈だと思いますけど、もう少しだけ我慢してくださいね」
そこまで言われてはもはや駄々もこねようがない。エドワードはただ黙って頷き、横になった。
フュリーの丸め込み術はすごいな、とちょっぴり感心しながら。
帝都まで一日、の距離に詰めたとき、ロイは行軍を止めた。適度な位置に宿営を張らせながら、様子を見に行ったのはおてんば姫だった。あのじゃじゃ馬がどうにも大人しくしているのが気になっていたのである。てっきり、外に出せと暴れると思っていたのだが…。
しかし、辿り着いてみて、何となく笑ってしまった。
彼女は、見張り役につけたフュリーにあれこれ質問して、機械の知識を深めているようだった。全く転んでもただでは起きないというか…。
「へえ、じゃあ、電波、っていうのを使うと離れた場所でも言葉とかいろいろ伝えたり出来るんだ?」
「今のところ、まだ解明されていない部分が多いんですけどね。将来的にはもっと広まっていく技術だと思いますよ」
楽しそうなその会話に、一瞬立ち入るのがはばかられたロイだったが、いつまで立ち聞きしているわけにもいかない。
「邪魔するぞ」
声をかけて馬車の扉を開ければ、クッションの上に寝転がったエドワードと一応は椅子に座っているフュリーが揃ってロイを見た。
「マスタング!」
「大人しくしていると思ったら、物知りの虫が出ていたか。どうせならマナーに詳しい人間でも一緒に乗せるんだったかな」
「マナーなんて今いらないだろ」
礼儀作法の成績がいまいちふるわないエドワードは口を尖らせてそっぽを向く。
「今とかそういう刹那的なものの見方は感心しないぞ、殿下。と、楽しそうなところ悪いんだが、フュリー」
外してくれるか、という目だけの合図を汲んで、青年は静かに立ち上がり馬車を降りた。それを不思議そうに目で追った後、エドワードは首を傾げる。
「…殿下。落ち着いて聞いて欲しい」
「…?なんだよ?」
「今のところわかっている情報だが、大変芳しくない状況でな」
ロイは、フュリーと入れ替わりに馬車に乗り込み、戸を閉めて、それでもなおひそめた声で続けた。
「まず、女帝陛下の行方が現在不明」
「…え…?」
大きな金色の目を瞬かせて、エドワードは絶句した。まさか、あの猛獣よりも猛獣のような叔母が。行方不明?敵に遅れをとったと?
「重臣の半分以上が反女帝勢力になったらしい。なかなかに最悪の事態といえるな」