帝国の薔薇
まあそうだろうな、と女帝は頷いた。
「陛下が殿下にお預けになったティンクトゥラが大きいですね。彼らにしても帝位を無視することは出来ないし、後釜に持ってくる人材もいないでしょう。…今にして思えば、ブラッドレイ公がアレックス様に近づいている、とい噂を流したのは、彼らを牽制するためだったのですね」
ブレダはちらりと老獪な男を見た。彼は特に否定も肯定もせず、目を細めただけだった。
「勿論、追い詰められた連中は何をするかわかりません。いきなり攻めてくる可能性もないではないが、多分最初は何某かの交渉に出てくるでしょう。これは、マスタングもそう申しておりました」
「ふん…」
「そして交渉ですが、…何しろあの殿下のことですから、すぐにも決裂するでしょう」
そこでブレダは小さく笑った。しかしそれはけして侮るようなものではなく、どちらかといえば、小さな子供のやんちゃを微笑ましく見守るような、そんな表情だった。
しかしその感情は女帝にも理解のできるものだった。
「まあ、そうだろうな。あれは頑固者だからな。誰に似たものだか」
肩を竦める女帝からは、二人が訪れる前のどこかぎらついた雰囲気が消えていた。彼女なりに、姪の無事を気にかけていたのだろう。
「そうするとそこで市街戦に突入すると思いますが…」
「そうなるか。まあ、そうだろうな」
「幸いにして、我がアメストリス、セントラルシティの民は皆、陛下と殿下の熱烈なる信奉者ばかりですから」
「今さら当たり前のこと、どうした?」
さらりと返した女帝に、ブレダは勿体つけたことを後悔しながら奏上した。
「そもそも相手も命令で動いているとはいえ、同軍の仲間です。痛めつけるのは得策ではない。ですから、市民の協力も仰ごうと」
「…なに?」
「交渉役が誰になるかはわかりませんが、決裂した段階で、相手の率いる軍が動く前に、周囲の民家の窓から網でも投げてみようかと」
「…は?」
ブレダの言葉に唖然としたのは、女帝だけではなかった。エドワードと似た色彩の少年も最初から同席していたのだが、彼もまた呆気に取られたような顔をしていた。
「交渉がどの場所で行われるかはわかりません。ですが、恐らく、凱旋広場になるのではないかと思われます」
正門から少し進んだ場所にある、女帝の十連勝を祝して建てられた広場を地図上で示して、ブレダは言った。
「広場自体は広いわけですが、広場の周囲にはご存知の通り教会と鐘つき塔、それから公会堂があります。それを超えると、宮城へは一本道で、沿道の家は皆五階以上の建築です。一部は広場にも迫っています。ここでまず足止めをします」
「…攻めるのは正面からでも、やることは正攻法ではないのだな」
どちらかといえば奇抜な法だ、とぽつりと女帝が呟けば、ブレダは静かに答えた。
「…どんな悪いヤツでも、死んじゃえばいいって思えない。…殿下がそう仰ったそうです」
「…甘いな。エドワードらしいが」
「ええ。とても殿下らしいと思います。我々は、殿下が殿下らしくいられるよう、策を練っただけです」
「…なるほど、あれをつけたのは正解だったか」
女帝は小気味良さそうに笑って、ようやく椅子に大人しく納まった。その様子を見て、マイルズがひそかに溜息をついている。彼にしても女帝を抑えるのは大変なことだったのだろう。
「で、どうやって私の舞台を作ってくれる気だ?」
「そこは正攻法です。我々が正門から進んでいけば、自然軍備は手薄になるでしょう。そこで――」
ブレダは、今度は宮城の地図を示した。彼の太い指先が示したのは、女帝を初め歴代の王達が参賀に応じて立つバルコニー、それが望む広場だった。
「陛下がお戻りになられる、という情報は既にまわしてあります。時を待てと。勿論、近衛からも護衛をお付けしますが、馬と御旗をご用意しております。陛下は、そのお姿をお見せになられるだけで十分です」
「…なんだ、暴れてはいかんのか?」
「それは逆賊相手になさってください。ウロボロスは…、処刑しないわけには、いかないでしょう」
最後だけ声を潜めたのは、その部分でだけは主の意思に添えないことをブレダが知っていたからだ。
「…まあな」
女帝は見とれるほどに肉感的な、あでやかな、けれど危険な笑みを浮かべた。
「決行はいつ?」
「明日の朝にでも、陛下よりお預かりした遠征軍が帝都正門より入門します」
「わかった。それではそれにあわせて待機しよう」
腕が鳴るな、と不敵に笑う女帝の顔は、為政者でもまして女でもなく、戦う者の顔だった。
「マイルズ、後で付き合え」
「御意」
目的が定まった女帝は、もはや問答は無用とばかり立ち上がった。
「両名とも、勤めご苦労。帰ってエドワードに伝えろ。城まで戻れば、おまえが会いたかった者に会える、とな」
「会いたかった…?」
「その先は秘密だ。楽しみがなくなるからな」
言って、彼女はちらと甥を見た。少年は、柔和な顔に似合わぬ達観した様子でただ肩を竦めただけだった。
なんにせよブラッドレイ――ひいては女帝との連携の作戦会議を終えてブレダとハボックが戻ったのは、女帝に告げた決行の時間まであとわずかとなった夜半のことだった。今は、帝都の外周の街に陣を置き、エドワードとそれを守る数名は街中の宿屋を仮の拠点としていた。
「…殿下はもうお休みで?」
報告より先にそれを口にした部下に、ロイは瞬きした。
「床には無理やり押し込んだが、起きてはいるかもしれないな」
「…無理やり…」
「ホークアイが、な。角を出して寝させた」
「ああ…」
「私が何か」
ドアを開けざま口にした女傑に、ロイもブレダも一瞬口をつぐんだ。
「いや。なにも。優秀だという話をしていただけだ」
「そうですか。ブレダ?殿下に何か」
「いえ…嬉しい知らせがあったものですから。お知らせできたらと思って」
「陛下の行方がわかったか?」
「はい。ブラッドレイ公の許に身を寄せておいででした」
「そうか…」
ロイは顎を擦りながら目を細めた。
「それで、女帝陛下から伝言もあるんですよ」
「伝言?」
ブレダの向かいで、いやあ女帝陛下って初めてお近くで見たけどすごい迫力ですね、とか言っていたハボックが補足した。
「誰とか教えてくれなかったんですけど、なんでも、城まで辿り着けば、殿下が会いたかった人に会えるって…誰なんですかね?」
この言葉に、ロイは軽く目を瞠った。
ブラッドレイが最近保護したといわれていた少年の外見的特徴と、今は彼が女帝を支持する唯一の勢力だという情報を合わせれば、それは一人しかいない。女帝までもが認めたなら、本人なのだろう。キンブリーの取調べはまだ進んでいないのだが、その前に望む結果だけが先に現われてくれたらしい。少なくとも、その一つは。
彼は、我知らず微笑んでいた。思わず部下達が目を瞠ってしまうような顔で。
「それなら、確かにきっとずっと会いたがっていた相手だろう。殿下も喜ばれるだろうな」
「閣下はお心当たりが?」
問われて、ロイは小さく笑った。
「恐らく姫の弟君だろう」
「弟…?」
「あ…!」