帝国の薔薇
ブレダは十年前の女帝の姉が殺された事件を思い出したのか、驚いたような声をあげた。あの時助かったのはエドワードだけだといわれていたが、弟が生きていたとは…。
と、同時に、思い出すのは先ほど同じ場に居合わせていた、エドワードと同じ色の髪と目をした少年である。なるほど、ではあれがそうだったのか、と彼は思った。そして、小さな、一所懸命な主のためにそれを喜ばしいことだと思った。
「…ご褒美を上げるためには、頑張らなくてはいけませんね」
ホークアイがぽつりと言ったのを、男達が見、ゆっくりと頷いた。
作戦は実行するまで成功かどうかわからないのだ。
明けて翌日。
まだ日も昇りきらないうちから、誰にも起こされる前から、エドワードは一人起き上がり、身支度をしていた。宮殿にいた頃から、いつ戦場に出ても困らないように、と身支度は自分でしていたから、特にまごつくこともなかった。それでも正装には色々飾りが多くて、どうもうまく付けられないことも多かったのだけれど。
そしてそれを見越したように、控えめなノックが聞こえた。
「…入れ。起きてる」
「では、失礼」
入ってきたのは、彼女の副官たる、本来であれば今帝位に座っていたはずの男だった。
「やっぱり、曲がってるな」
「…しょうがないだろ」
勲章をどうしてもうまくつけられないのを、ロイはいつも真っ先に気づいて直してくれる。だからいつまでたってもエドワードはそれだけは上手く出来るようにならなかった。
「…殿下。嬉しい知らせだ」
「なんだ?」
「陛下は健在」
「…!」
目を輝かせて振り向いた顔、その頭をぽん、となでて、それから、とロイは付け加えた。なんでもないことのように、さらりと。
「弟君が城で待っている」
「…え?」
今度は、呆然と絶句してしまった。ロイは目を細めて、後は勝ってからのお楽しみだ、とだけ告げ、退室していった。残されたエドワードはといえば、呆然と、とっくに起き上がった寝床に逆戻りしてしまった。
「…アルが、待ってる…?」
十年前に別れた姿しか記憶にない弟の、いつも自分の後をついて回っていた姿を思い出す。自分も一緒に行く、と、城へ行く自分の後ろで駄々をこねていたのが最後に会った記憶だったから、それを思うと胸が締め付けられるようだった。
でも、その弟が待っているという。生きていて、会えるのだという。
こみ上げてくる涙を噛み殺しながら、生きてた、とエドワードは小さく呟いた。
ブレダが女帝ひいてはブラッドレイに語った通り、宮城の反勢力からは使者が立てられていた。但し、勿論無手の使者ではない。慇懃に接しながらも、ふてぶてしい態度が垣間見える使者だった。
「殿下におかれましては、まずは北よりの無事のお戻りをお喜び申し上げます」
品のない笑いを貼り付けた男が頭を下げるのを、エドワードのみならずロイもまた無感動に見下ろしていた。
場所はやはり凱旋広場であり、布陣についてもまた、ブレダが語った通りのものになっていた。
「さて…つきましては、早速ではありますが、殿下。宝剣ティンクトゥラはアメストリス正嫡の証。ぜひそれを携えて帝位におつき遊ばしくださいませ」
「…おかしなことを仰る。陛下がご存命でおられるのに」
エドワードはちらりと瞬きしただけで、その斜め後ろに控えたロイが堂々とした態度で口を開いた。
「おお、これはマスタング殿…、貴方もまあ面白い方だ。今なお陛下に忠誠を尽くされるか?」
「今なおも何も、それは臣下として当然のことでしょうね」
澄ました調子で答えるロイに、使者、ハクロという男は舌打ちしそうな顔をした。
「殿下。恐れながら、陛下は、確かに偉大な方でありましたが、帝位につくためにご自身の叔父上様とその奥方様をお手にかけられ、また、多くの臣達もまた躊躇わずに追放、処刑されました。恐るべき行いです。人の道に悖ることではないでしょうか」
ロイはしらけた目を向けたが、何も答えないエドワードに、ハクロはさらに言い募る。
「殿下は、陛下とは違いお優しいお心根をお持ちでいらっしゃいます。どうか、我らを率いて、あらたにこの国を…」
「おまえの甥を張り飛ばした時に、なんて乱暴な姫だ、と言われた記憶があるんだが」
そこで、エドワードは淡々と口を開いた。
「御前試合だったから、思い切りいっただけだけだったんだが…」
記憶をなぞらえて口にすれば、ハクロが立場悪そうに詰まった。誰ともなく、忍び笑いが漏れる。剛の女帝であるから、御前試合というのは機会にして多い。その中で皇太子と戦う栄誉にハクロの甥は浴したわけだが、…体の小さなエドワードに張り飛ばされた挙句にその暴言では、女帝の不興を買ったこと想像に難くない。
「いや、…それは私の見識が大いに」
「茶番はもういい」
今度はエドワードが斬って捨てる。
「わたしは陛下を追うつもりはない。争いを大きくするのも望まない」
真っ直ぐに見据えられて、ハクロは椅子の上でバランスを崩す。
「今すぐ剣を抜くか、帰って仲間に伝えるがいい。わたしは、おまえたちの頭になるつもりはない」
どちらでもいい、と動かずに告げるエドワードには、少女とは思えない何か威厳のようなものがあったが、ハクロは認めたくなかったのだろう。おのれ、と口の中で呟くと、その手を剣の柄にかけた。
しかし、その瞬間――、
「…なんだっ?」
広場の中央あたりに会談の場は設けられていたのだが、その背後から突如ざわめきが広がったので、ハクロも一時そちらを振り返る。そして目にしたのは、道なりの家々の高い窓から民衆がクッションやら布団やら花瓶やらを容赦なく下に投げ落としている光景だった。中には食い物や油もまじっているらしく、異様な音と臭いがあたりに広がっていた。
「今、その手を剣にかけられたか、ハクロ殿」
いささか呆然としたハクロの背後にぴたりとにじり寄って、ロイが低く落とした。
「え、あっ?!」
「逆賊を捕らえろ!この男は皇太子殿下に剣を向けたぞ!」
ロイが声を張り上げると、近衛の兵だけでなく、ハクロに従ってきたはずの兵士達さえ一緒に動き出し、ハクロを我先に取り押さえた。
「貴様ら、なにを…!ええい、傭兵隊!コーエン!」
何を言っても無駄と悟り、途中で傭兵隊の、恐らくは隊長の名なのだろうそれをハクロは呼んだが、…機を見るに敏な傭兵が、今この場でハクロにつきはしない。青い軍服を身に纏った彼らは、動きを乱すことなく会談の場を見守っていた。
「くそっ、所詮は野良犬か…!」
悔しげに吐き捨てても、左右前後取り押さえられた格好では全く様にならない。ロイは背中で手を組んで、哀れみのこもった目でハクロを見下ろす。
「世話をすれば犬は懐くだろうさ。自分の不精を棚に上げるのは見苦しい話だろう」
「貴様…!」
「話がわかりそうな大将だ。なんなら俺らの腕買ってくれないかな?」
口笛を鳴らして傭兵の一人がロイに声をかける。それを一瞥して、ロイは小さく笑った。
「そうだな。だが大将は私ではないから」
殿下、どうします、と振り返られて、エドワードは瞬きする。
「おっ、そっちの美少女が大将か、それなら初回キャンペーンにさらに色つけて半額サービスで頑張るぜ」
「な…」