帝国の薔薇
混じりけのない黒い髪と瞳は、今どんな色よりもその酒場では目立っていた。勿論理由なら落ち着き払った態度にもあるだろうし、派手でこそないが、整った容姿に負うところも大きいだろう。しかし何よりも、彼がここ数日でひどく有名な立場におかれることになった人間だ、ということが一番の原因であるに違いなかった。
誰一人として彼に近づく者はいないが、視線だけは彼に集中しているというその緊張状態に、しかし本人は特に気にした様子もない。淡々と酒を傾け、淡々と肴を口に運ぶ。
――勇猛の女帝を頂点に戴くこの国では、女帝と、その姪姫の人気が非常に高い。そして女帝への思慕が敬愛、あるいは畏敬に大きく占められているのに対し、皇太子である姪姫、エドワードが民衆から集めるものは、もっとやわらかくて微笑ましい感情だ。
男装に身を包む初々しい少女を、街の誰もが、国の誰もが大事に思っている。そんな風潮が今のこの国にはある。その彼女の補佐に付けられた男、ということで、誰もがロイに注目していた。だから、本来であればこんな酒場で飲んでいていいような男ではないのだ。どこで何があるかわからないのだから。
しかしそれでもロイはどこ吹く風だった。
「…あの」
いっそ傍若無人とでも言いたくなるような悠然とした態度で飲んでいたロイに、意を決した顔で近づいてきた人間がいた。ロイは、黙って顔を上げる。
「マスタング、副師団長閣下、でありますか」
ロイは一度瞬きした後、意地悪げに笑い、頬杖を付いた。足を組み替えて、静かに問いを返す。
「酒くらい静かに飲ませてほしいものだな」
「はっ! …失礼いたしました」
かしこまる相手に、ロイはくつくつと笑った。
「おまえ、名前は」
「は?」
「名前は、と聞いている」
「は、…ハボック、と」
ロイは椅子の上で悠然と腕を組み、ハボック、と口の中で繰り返した後、やたらと背の高い男の背後、連れと思しき男が心配そうにこちらを見ているのに目を細める。
「おまえ、首都は長いか」
「へっ? あ、はあ、そうですね、まあ長い方だと思います」
そうか、とロイは考え込むように呟いた後、薄く笑ってハボックと名乗った男に告げた。
「後ろにいるおまえの連れも連れてこい。私は首都には不案内でな、話を聞きたい」
気負いなくさらりと言われた台詞にハボックは瞬きし、それから慌てて振り返ると、ブレダ!と呼んだのだった。
多少酒の入っていたハボックは、例に漏れず薔薇の姫を敬愛する者の一人だったから(というよりも、今現在のこの国でそうでない人間の方が少ないのだが)、ひとり酒を傾けているのが噂の副師団長であることに当然のように気づいた。ロイがそもそも人目を集める容姿をしていることも大きいわけだが。そして、気づいて、…彼が一人であること、近衛のあの目立つ制服を身に付けていないことから、…声をかけてみよう、となぜか思い立った。当然同僚にには停められたわけだが、…酒場でのことだ、いいだろう、と酔った頭で結論を出した。
そうして話しかけた結果、ロイを相手に首都のあちこちや軍の内部の噂話なんかをする羽目になった。ロイはあまりよく喋る男ではなかったが、聞くのが上手いというか、眼差し一つで続きを促す様が堂に入っていて、気づいた時にはすっかりハボックはこの男に心酔していた。
それは、隣で話していたブレダも同じだったようで、途中からはむしろ酔いも浅いブレダの方がロイにあれこれ話していたほどだ。
しかもこれが最も重要なわけだが、ロイは、別れ際、二人の飲み代も一緒に払ってくれた。要するに奢りだ。何せ近衛の副師団長ともなれば俸給は二人の何倍にもなるのだから、微々たる額だったには違いない。だがそれでも、そんな風にしてくれて気持ちがよくないわけがない。
いい男だ、と二人はすっかりそのように判断したが、本当にその時の判断が間違いではなかったのか、とちょっとだけ迷う日が来ようとは夢にも思わなかった。
「ハボックこのやろう!おまえタネを教えろ!」
「はっ?!って、いてえ!離せ馬鹿!」
翌日出勤するなりハボックを取り囲んだのは同僚達で、小突いたり首を絞めたりするのはかなり本気に感じられ、ハボックは目を白黒させた。まるで意味がわからない。だが、その疑問は、若干青ざめた顔をして現われたブレダによって程なくして解消される。
「…すげえことになった」
「なんだよ、わけわかんねえよ、これ」
どうにか同僚達の手荒い挨拶から抜け出したハボックに、ブレダは、神妙な顔で向き直った。
「ハボ、いいか、深呼吸しろ」
「はあ?深呼吸?」
「いいから。俺はおまえが驚いて息が止まっても保障しねえ」
「…大げさだな、おい。ああ、わかったわかった、ほら、吸ってー、吐いたー、ぞ、と」
適当に深呼吸をした同僚に、ブレダは何となく困ったような目を向けたが、すう、と軽く息を吸い込むと、ゆっくりと告げた。
「――俺達な、近衛に召集だ」
「…は?」
ハボックはぽかんとした顔で首を捻った。
「だから、近衛師団に配置換え。副師団長殿の声がかりで。おまえ護衛、俺参謀」
「………。…は?」
ハボックは、首が肩にくっつこうかという程に首を傾げた。そんな同僚に、ブレダは哀れみのこもった目を向けて首を振った。
「理解しろ。真実だ」
淡々とした声に、ハボックは顎が抜けたような顔をして、「何だそりゃ!」と盛大に大声を上げたのだった。
赤が似合わないというよりもそもそも体型の問題で制服自体がかなり窮屈に見えるブレダと、体格的には軍服がよく似合うのだがきちんと着るということが得意ではないハボックは、畏まった表情でその男の前に立っていた。男は、食えない笑みを浮かべて目を細めていた。そして、その横に立っているのは。
「…こいつらが、おまえが選んだ、側近?」
かなりぞんざいな口調ではあったが、至近距離で動いて喋っている「薔薇の姫」に、二人は大いに緊張した。相手は何しろ次期帝位継承者にして、近衛師団の長である。高く結われた金色の長い髪が揺れるのを見ながら、ああ、生エドワード姫、とハボックは何となくその動きを見守った。ちょこまかして可愛いなあと思いつつ。
しかしブレダは、姫が口にした「側近」の言葉に耳を疑っていた。側近とはまたどういうことか、と。
すると目の前の黒髪黒目の男が、双方の疑問に答えるように、ゆったりとした口調で説明を始めた。
「私は首都のことも、中央軍のこともあまりよくわからない。そしてその情報を得るためには独自の手段が必要だと考えているし、そのためには、近衛の中だけで手が足りるとも思えなかった」
主に、というか皇太子に対しているのにしては平易な口調に、ブレダとハボックは軽く目を見合わせた。しかしエドワードはそれに異を唱えることはない。特に気にしてもいないのだろうが、それもどうなのだろうか…、と二人は内心複雑な思いだった。国粋主義者とまではいかずとも、二人共に、国に誓った忠誠は生半なものではない。
「ハボックにブレダだ。姫、よろしくしてやってくれ」
「だから、姫っていうな!」