帝国の薔薇
父は何か慌しく準備しているように見え、エドワードはそれが気になって仕方なかったが、邪魔をしてはいけないととりあえず黙って見ていた。しかしそのうずうずした様子は父にも伝わったのか、彼は小さく笑ってから振り向くと、ちょいちょいと手招きをした。
「おいで。手伝ってくれ」
「いいの?!」
目を輝かせて問い返せば、ああ、と頷かれ、エドワードはぴょこんと本棚の隙間から飛び降りた。そしてそのまま父の許へ歩いていく。昔は見上げてもなお大きかった父だが、今も見上げることには変わりないけれど、昔よりもっと近くに顔が見える。それが何となく新鮮で、エドワードは瞬きした。
「…これ、何してるの?」
尋ねれば、父はエドワードの顔を覗き込み、話の続きを再開した。
「賢者の石というのはとても貴重なものだけれど、だからといって、そのために何かを犠牲にしていいわけはない」
「…犠牲って?」
父は手元で忙しなく図形のようなものを描いたり何かの粉をまいたりしていた。なんだか実験みたいだ、とエドワードは瞬きする。
「エド、そっちの赤い粉をとってくれ」
「はい。これ?」
「ああ、そうだ。ありがとう」
父の何気ない台詞が嬉しくて、エドワードははにかむ。
「連中は、…今のような彼らにしてしまったのは、私がいたせいが一番大きいんだろうが…、連中は、この国の人間を大勢犠牲にして賢者の石を作り出そうと…いや、作り出していた」
「…殺したのか…?連中って?」
「ウロボロスという連中だよ。…今頃、女帝陛下と対峙してるんじゃないだろうか…エドワード、おまえ、ティンクトゥラを持っていたのかい」
「え?何で知って…」
「なるほど。…あれはね、エドワード。宝剣なんかじゃないんだ。あれもまた賢者の石で出来ている。それを加工して、あの刀身から賢者の石の材料を吸引するためのものだったんだ」
「…なにそれ…」
エドワードはぽかんとした顔で瞬きして、今さらながらに頬をつねった。大分タイミングとして遅いものではあったのだが。結果は、痛かった。こんな状態でも痛いのか、とある意味感動しながら、エドワードは瞬きした。
「人の魂、あるいは、人、そのもの。それを大きな坩堝に溶かしこんで、焼結させる。そうして賢者の石を作り上げる。…ここはね、エドワード。その坩堝にいたる、ほんの手前だ」
「……よく、わからないんだけど…」
父は困ったような顔をして、ええと、と唸った。
「私は説明が下手で…それでよくトリシャにもアルフォンスにも怒られたんだが…なんといおうか、ううん…」
「…アル。アル、一緒だったのか?あれから?」
「少し前にはぐれたが、それまでは。…恐らく、無事だろう」
「…戦いが終わったら、アルに会えるて聞いたんだ。オレ。だから、」
「…『オレ?』」
父、ホーエンハイムが難しい顔をして顔をしかめた。
「なんで、エドは、そんなに可愛いのに、オレ、とかいうんだい…」
「お、…オレは、オレだもん…」
そっぽを向いてしまった娘に、父はしゅんと俯いた。
「どうしてなんだい、エドワード。わたし、といっておくれ。後、私のことはパパと呼んでくれてもいいんだよ」
「…おとうさん、じゃ駄目なのかよ。…もう、いいから!早く進めようよ!そんなこと話してる場合じゃないだろ!」
「む。そういえばそうだった。…だがわたし、には直してくれよ。…ええと、それで、なんだったかな。…そうだ、賢者の石だな」
マイペースに何度か頷いた父に、そういえば父はこういう人だった、と記憶を揺すり起こしながらエドワードは思い、小さく笑った。
まさか赤い柱の中、ホーエンハイムの言を借りれば坩堝の一歩手前、の中でそんな暢気な遣り取りが繰り広げられているとも知らず、そのすぐ外では暢気とは程遠い命の駆け引きが繰り広げられていた。
ラストと呼ばれた女だけでなく、アルフォンスがホムンクルスと称した彼らは、それぞれに異能を備えているらしく、腕が伸びたり爪が伸びたりと忙しいことこの上なかった。しかし、女帝はさすがに顔色一つ変えずに、伸ばすなら伸ばしただけ斬ればいい、と片っ端から斬り捨てていた。ロイはといえば、その脇で、異常に体が固く剣の刃がたたない相手と戦っていたが、効かないなら効くまで斬ればいい、とこちらも似たような思考で戦っているらしかった。変なところで似ている二人だった。
それ以外の兵士はあちらこちらに右往左往し、ただしハボックだけは念願の、ということもあるまいがなぜかラストに対峙して、かなりきわどい状況にあった。彼は弱くはなかったが、前述の二人に比べると若干普通だった。ちなみに、女帝の背後に控えていたマイルズもまた、女帝を援護する形で切り結んでいた。
そんな中、赤い柱の前で自分こそ命の遣り取りをしているような顔をしながら、必死に設備の解析をしていたアルフォンスの顔色が変わった。
彼は父との十年間の放浪の中で、父の持つ膨大な知識の、確実にその一端以上を引き継いでいたから、確かに今この場でアルフォンス以上にその設備を理解し、動かすことの出来る人間はいなかっただろう。それでも、やはり少年は頑張ったといえるはずだ。
彼が何かを動かした瞬間、赤い柱の光が弱まったように見えた。そのことに、それまで余裕で戦っていたホムンクルス達が息を飲む。まさか、いくらホーエンハイムの息子だからといって、そんな短時間でどうにかできるとは思わなかったのだ。
「陛下、今なら効くはずです!」
少年は正面を向いたまま、それでも声を張り上げた。女帝はそれには答えなかったが、甥の声に目を輝かせ、一歩を踏み込んだ。それまで斬ってもさして変化のなかったエンヴィーに、サーベルの切っ先が突き刺さり、確かな手ごたえをよこした。エンヴィーの信じられないという目に、ふん、と青い目が笑う。
「身の程を知れ」
抉るようにサーベルを動かし、ぐったりとするまで深く突く。そしてその後は、だん、と踵で蹴ってサーベルから振り抜いた。エンヴィーは床に倒れこみ、ぴくりとも動かない。
その近くで戦っていたロイも、勿論、アルフォンスの声を聞いた。
「だ、そうだが?」
既に異形の姿になっていた男に笑って話しかければ、どうだかね、やってみるかい、と返って来た。そうさせてもらおう、とロイはそれまでよりさらに早く懐に飛び込む。
ロイは確かにそこまで大柄というわけではないが、けして小柄ではない。そこまでの機敏な動きは想像していなかったのか、わずかに隙が生まれた。そこで、ロイは、迷わずに手近な位置から心臓を刺し貫いた。男の背中に赤黒く濡れた切っ先が突き出るが、彼もまた、女帝と同じように、刺し貫いただけで終わりにはしなかった。ぐいっと抉って、さらに、鞘に仕込まれていた小刀を閃かせて男の喉許を思い切り引き裂く。しかし倒れていく刹那の男は、楽しげに哄笑を響かせた。