帝国の薔薇
と、抱えられたままぱちぱちと瞬きを繰り返していたエドワードの目がしっかりしてきた。そしてまじまじとオリヴィエを見つめ返した後、ようやく、自分が誰に抱えられていて、誰になんと言ったかに気づいたらしい。慌ててロイを振り仰ぎ、どことなく不満げなその顔を見つけると、うわあ、と慌てた悲鳴を上げたのだった。
これは、と小さく噴出しながらアルフォンスは思った。
天然だ、と。
その後、とにかく専門的な知識があるのがアルフォンスしかいないので、医者とアルフォンスが中心になってエドワードの治療と検査が行われた。本人は至って元気だと不満そうだったが、叔母女帝と副官に笑顔の弟にまで厳しく反対され、渋々従った格好だった。
その間、女帝の陣頭指揮の下、徹底的なウロボロスの排除が行われた。なお、その時活躍したのは、ロイの旧来の友人であり、今回も多大な協力をしてくれたヒューズという男だった。
「よ、こっちこっち」
残務処理は一朝一夕に付けられるものではなく、とにかく今日はここまでと区切ったところで、ロイは、その友人に誘われた飲み屋へと足を向けた。
「悪い、待たせたか」
「うんにゃ、そうでもねえ」
ロイが来たのを見ると、彼は手際よくロイの分も酒を注文してくれた。気安い友人と一緒だとありがたい。
「今回は、特に色々助かった」
「なにいってんだ、当然の仕事をしただけだぜ、っと」
ほれ、きたきた、と渡して、とりあえずお疲れさん、と杯を合わせる。
「しっかし、おまえさん、本気か」
「なにが? …ああ…あの話か。ああ、本気だ」
「…近衛の副師団長閣下が。皇太子の婿候補だってもっぱらの噂じゃねえか。それが、なんでおまえ…」
声を潜めて尋ねてきた友人に、ロイは肩を竦めた。
「後片付けが済むまでは保留だがな。…なんだかな、すっきりしたんだ」
「すっきり?」
「ああ。…つかえていたものが、全部取れたような…そんな感じかな」
ウロボロスの問題が片付いた時、本当の意味で、ロイの中の痞えは確かに取れたのだ。エドワードと過ごすうちに解されていった心に、それが最後の雪解けを与えてくれていた。
「…あの可愛い殿下を置いてくのか?」
と、ヒューズがからかうように言うと、ロイが片方の眉をひそめて、芝居がかった仕種で言った。
「おまえ、知らないのか。あの子ときたら、俺の顔を見て、お父さん、とか言ったんだぞ。…その程度だろ。懐いてはくれていたがな」
「…へぇ」
笑い話を披露したのだが、ヒューズは笑わなかった。
「ヒューズ?」
「おまえさん、今、あの子って言ったんだぜ」
「…?」
「おまえも案外鈍いんだよなあって話。まあ、おてんば姫をあなどってるとおまえが痛い目見るかもしれないけど、俺はそれに期待だな」
「…何の話だ?」
今度は本気で眉をひそめたロイに、ヒューズは澄ました調子で笑った。
「なんでもねえよ。こっちの話だ」
――ロイが近衛よりの除籍を申し出たのは、ウロボロスの残務整理もほとんど片付いた、それから一ヵ月後のことだった。
なお、なぜ?という問いには、私に赤は似合わないんだ、という人を食った答えが返されたという。
「マスタング!」
寝間着のままで廊下を走りぬける姫の後ろから悲鳴が上がっているのだが、そんなことはエドワードの知ったことではなかった。
「…こら、姫!」
逃がさないとばかり、階段の上から飛び込んできた体を何とか受け止め、ロイは声を荒げた。しかし、相手の癇癪の方が早かった。
「なんだよ!なんで、オレのとこからいなくなるんだよ!」
馬鹿!と怒鳴りながら胸をたたくのは、これはもう子供の癇癪以外にないだろう。とりあえず回廊はまずい、と判断し、ロイは手早く、手近な部屋に入り込んだ。とにかく外聞が悪い。自分はもうここを去るばかりなのでいいが、エドワードのためにならない。
「姫、落ち着いて…」
「姫じゃない!あと、おちついてる!」
「どこがだ…姫、とにかく、ほら、深呼吸してみないか?」
「馬鹿!子ども扱いするな!そんなのより、答えろよ!」
「…寝間着で人に抱きついて許されるのは子供だけだと思うんだがな」
はあ、と溜息をついて、ロイは、室内にちょうどよく置かれていた長椅子にエドワードを腰掛けさせた。離さないぞとばかり髪をつかまれ悲鳴を上げる羽目になったが、置いていかない、と誓って何とか許してもらった。これでどう子供ではないというのか、とロイは呆れそうになった。
「まず、殿下に最初に言わなかったのは、謝る。だが殿下は長いこと面会謝絶だったからな…いう機会がなかったんだ」
「面会謝絶? …アルか!」
「弟君がなにか?」
「オレずっと元気だった。退屈で退屈で仕方なくて…でも、アルが駄目だよって外出してくれなくて。…妙に人も来ないなって思ってたんだ。アルが制限してたのか…!」
「…なるほど」
まあ後で姉弟喧嘩でもなんでもしてくれ、と思いながら、ロイは話を戻した。
「それでだな。まあ、知っているなら隠してもしょうがない。私は、近衛を…、むしろ、この国を出ようと思っている」
「…え?」
床に膝を着いて、椅子に腰掛けるエドワードを見上げながら、ロイは静かに続けた。
「ウロボロスのことが片付いて、私は、なんだか、…なんだろうな。全部片付いたような気がしたんだ」
「……」
「けして殿下や、今の暮らしに不満があるわけじゃないんだ。だがな、…目の前が開けたような気がして。外に行ってみようかと思ったんだ」
「…だから、オレを、おいてくの?」
寄る辺ない子供のような顔と声で言われて、ロイは苦笑した。そして手を伸ばし、白い頬に触れる。何度か指先でそのふくらみを辿って、言う。
「栄えある、帝国の薔薇」
「…?」
「私の誇り。私の命。…どうかかわらずに、気高く、美しく。…最後に一つ、口づけを、お許しください」
謳うように口にされた言葉に、エドワードは瞬きするくらいしか出来なかった。そして、ロイは答えを待ったりはしなかった。
彼は膝をついたまま顔を寄せると、下から、エドワードの頬にキスをした。ただ触れるだけの、家族とも変わらないそれに、けれどエドワードは真っ赤になった。頬であっても、異性から口づけをうけたのはそれが初めてだった。もっと小さい頃ならわからないけれど、物心ついてからは、少なくとも。
「…いつまでも、御身の上に幸あれ」
真っ赤になって固まっているエドワードの頭をぽんぽん、と撫でて、ロイは立ち上がった。今度は追いかけることも出来ずに、呆然とエドワードはそれを見送るしか出来なかった。
ロイが都を発つ際、そこには、ハボック、ブレダ、フュリー、それからあの日、あの地下でウロボロス討伐に加わっていた糸目の兵士、ファルマンが一緒にいた。豊富な知識量を見込んで、ロイが自らの配下に望んだのだ。彼らはまず東に向かうことになっていた。
…さて、ロイが発った直後の宮殿は、特に女性陣を中心に火が消えたようになっていた。ただでさえ、ウロボロスが片付いて、平和ムードが漂っていたから気が緩んでいたのもあったのに加えてだったから、抜け出そうとする人間にとっては好都合だった。