帝国の薔薇
軍服でもなく、普段着というのでもなく、とりあえずは動きやすそうな男装のエドワードがまず立ち寄ったのはお気に入りの喫茶店だった。本当は旅装で出たかったのだが、それでは目立ちすぎるので、普段のお忍び(あまり忍んではいないが)のような格好で城を飛び出したのである。
「何か一杯ちょうだい。のど渇いちゃって」
都の人間は皆この姫を愛していた。だから、無邪気な笑顔でこんなことを言われたら、甘い菓子のひとつもつけてすぐにも茶を淹れてやる。
「おいし」
顔をほころばせられたならさらに重畳というもの。店主は、ばら色の頬を持つ少女に種明かしを一つ。
「新しいお茶なのですよ」
「そういえば、なんかいいにおいがする」
「殿下はまだ花より…かな?」
「なんだそれ」
「薔薇が入っているのです。そのお茶」
薔薇?とエドワードは首を傾げる。
店主は、恥ずかしそうに続けた。
「殿下が、北からお帰りになられたとき…それまで都中が暗かったのに、一気に灯がともったようになりました。だから、薔薇にちなんだものが作りたくて」
「…」
エドワードの頬が淡く染まる。と、同時に、なんだか申し訳ないような気持ちにもなった。ここには、こうやってエドワードを慕って、愛してくれる人たちがたくさんいるのに。
――自分は、今から、格好いい事をいって自分を置いていった男を追いかけようとしているのに。
口を開いたのは、なぜだかわからなかった。けれどどうしても、言わずにいられなかった。
あの日ロイが、言ってくれた台詞を思い出しながら。
「――これ、名前、あるの?」
「いえ、まだ…庭園の薔薇、なんてどうかと思っているのですが」
「帝国の薔薇、じゃだめ?」
エドワードの台詞に、店主は目を丸くした。こうして気安く話をするだけでも大変なことなのに(ちなみに、最初からさすがにこうだったわけではない。これはエドワード自身がそうしてほしいと望んだからこうなっただけで)、その名前は…どう考えても、エドワードそのものではないだろうか。まだ誰もそんな風に呼んではいないけれど、言葉にすれば誰もがエドワードを思い浮かべるはずだ。
戒厳令の街にはためいたあの薔薇の御旗を、ありがとう、と頬を輝かせて言った声を、まだ誰も忘れてはいない。
「駄目というか…駄目ではないのですが、…駄目ではないのですか?」
しどろもどろに店主が問い返せば、にっこりとエドワードが笑い、決まりだ、と言った。
それから手早く厚手の外套と携帯食を手に入れて、早馬を飛ばしてエドワードは急いだ。相手は急ぐ旅ではないし、このあたりなら自分の庭も同然だ。回り道だって容易だ。しかし、油断は出来ない。相手の体力が化け物並なのは既に熟知している。
都の外壁を出て、少し行ったところで、とうとうエドワードはロイ達一行の前に滑り出た。
「…な」
さすがのロイも驚いたらしい。
まさか単身エドワードが来るとは思ってもいなかったのだろうし、そもそも、追いかけたとして、こんなに早く追いつかれるとも思わなかった。
「捕まえたぞ」
やんちゃな子供のように笑う少女は、溌剌として美しい。
最初に見た時は未分化の印象が強かったが、今ではさすがにそんなことはない。それは最近そうかなと気づいてはいたが、…本当には気づいていなかったのかもしれない、とロイは内心で舌を巻いた。
「…鬼ごっこを始めたつもりはなかったんだが?」
とりあえず下手な冗談で返す以外に思いつかなくて口を開けば、エドワードは笑った。
「鬼ごっこか、それもいいけど」
「…よくないだろう。姫、帰りなさい。私はちゃんと別れの挨拶はしたぞ?」
「オレは許すって言ってない」
「…は?」
すかさずエドワードから返ってきた答えに、ロイは瞬きした。そこに、少女が畳み掛けるように続ける。
「オレは、どっかにいっていいなんて、ちっとも言ってない!」
「…姫、あのな…」
「姫っていうな。オレはもうただのエドワードでいい」
「…?なに?」
エドワードは馬首をめぐらせ、ロイに近づく。そして手綱を放して曲芸のように立ち上がると、そのままロイに向かって飛びついた。ロイは驚くどころではない。落馬しなかっただけでも奇跡だろう。
「こら!このお転婆姫が、危ないだ、」
ロイのお説教は、エドワードからの突然のキスという攻撃で強制的に終えさせられた。目を丸くして受け止めるロイにしても、あまりのことに頭が止まってしまっているのだろう。
やがて押し当てていた唇を離して、目元を真っ赤に染めながら、それでも必死にエドワードは押した。
「…ただのエドワードは、あんたのそばに、いられない?」
さしものロイが絶句して、まじまじとエドワードを見つめている。
…ちなみに周囲では、よくわかんないけど殿下頑張れ!でもちょっとお兄さんびっくりしたぞ、と思っているハボックとか、ここ一応街道なんだけど、と思っているブレダなんかがいたりするのだが、今現在二人はそれ所ではない。
「もっと、胸とか大きくないと駄目?色気とか、そんなんないのわかってるけど…でもがんばるから!」
色気って頑張ってどうにかなるのか、とブレダは仲間に目線で尋ねたが、フュリーが困ったように首を振る。
「料理とか…出来ないけど、出来るようになるし!」
必死に並べ立てる姫の言い分を色々聞いていたロイが、おもむろに小さく噴出した。
「…?」
「なるほどね、よくわかった」
愉快そうに言って、ロイは、とりあえず鞍の上でエドワードを抱きなおし、身を支える。
「そうだな、さしあたっては、…まず名前で呼べるようになってもらおうか。エドワード?」
初めて名を呼ばれ、至近距離で微笑まれ、ぼ、とエドワードの顔が赤くなる。素直すぎるその反応に気を良くした男が、これは不意打ちのおかえしだ、と嘯いて、無防備な唇を奪う。エドワードがしたものとは違い、こちらは白昼堂々、舌まで絡め取るような口付けだった。思わずハボックなど目をそらしてしまった。エドワードが可哀想で。
「――二度と、都には帰れないかもしれないぞ?」
唇をゆっくりと離し、濡れたそれを親指でぬぐってから、ロイは、落ちてきた体を抱きとめつつそう囁いた。覚悟はいいか、と。
「…ちゃんと、オレの代わりは置いてきたから。だいじょうぶ」
出掛けに名づけた紅茶を思いながら、エドワードは頷いた。恥ずかしくてロイの目は見られなかったが。
「…そうか」
深くは聞かずに、ロイは、細い体を抱きしめた。
「…やれやれ、盗みにだけは手を染めたくなかったんだが。これでまたひとつ罪深くなってしまったな」
「…?」
落ちてきた冗談めいた呟きに眉をひそめれば、彼は笑ってこう種明かししたものだった。
「花盗人にあたるだろう、これは」