帝国の薔薇
本当に小さな子供の頃に戻ったような気持ちがしていたのだけれど、ロイの腕はしっかりしていてびくともしないように見えたから、安心できた。
「…まあ、殿下!」
誰かが駆け寄ってきた、と思ったらあげられた声は年嵩の女性のもの。昔から知っている召使のひとりだ、と薄目を開けようとして、随分と自分の体がだるいことに、ようやくエドワードは気付いた。
「軽く熱を出しておられるようだ。このまま運ぶから、案内を頼む」
この男に丁寧に頼まれて断れる女がいただろうか、少なくともこの宮殿に、と思いながらエドワードはロイの胸に頭をもたれた。
ゆったりした寝着に着替えさせられ、ぐっすり眠ったら夜だった。
よっぽど疲労がたまってでもいたのだろうか、あれほどだるかったのが嘘のように体がすっきりしていた。
それでも、あの、病み上がり特有の奇妙な気だるさのようなものは体の隅にくすぶっていて、起き上がると少しだけ足元がふらついた。
それでも外の風が感じたくて、大きなドアを開けてバルコニーへ出る。
「…さむ」
途端に流れてきた夜風は冷たくて、思わず肩を抱くようにした。薄着で出てきたのがよくなかったのだろう。
「…わぁ…」
けれど、その清冽な風は身に心地よく、何よりも夜空を冴え冴えと輝かせていて喜びを与えた。エドワードは小さく声を上げて空を見上げる。しばしじっと見つめていたら、不意に涙がこみ上げてきた。とてもちいさな頃の事を思い出したからだ。
「…こら、殿下。じっとしてないと駄目だろう」
「…っ!?」
そうやって物思いに耽っていたら、するはずのない声がして驚く。慌てて目を擦ってあたりを見回し、…バルコニーの下というか、隣というのか、背の高い木の枝に座り込んだ副官がこちらに向けていた視線を見つけた時には本当に驚いてしまった。
「まったく、寒いだろうに」
彼は呆れたように言うと、自分の上着を脱いで放ってよこした。駆け寄ってそれを思わず受け止めて、エドワードはそれが、近衛の上着ではないことに気付いた。黒いそれは彼の私服だろうか。
「そんなことない、寒がりじゃないから平…、…っしゅ!」
受け取ってしまったことを恥じるように、赤くなって言い返そうとしたエドワードだったが、…途中でくしゃみをしてしまいすべてが台無しになった。ロイは枝に寄りかかって腰を下ろした姿勢のまま肩を震わせた。おかしかったのだろう。
「…なんだ、この無礼者!」
「しっ。…姫、あんまり騒いでいると起きているのが見つかって怒られるぞ」
「…っ」
エドワードはぶうっと頬を膨らませて、不貞腐れた態度で、それでも渋々ロイの上着を羽織った。ロイを見ている限り、もっと体格のよい兵士などたくさんいるせいであまり大きいという感じは受けないのだが、上着はぶかぶかだった。前をあわせても随分と余るのだから面白くない。
「…何やってるんだ?」
それでもそうやって上着を羽織ってしまうと暖かくて、知らないはずの匂いがなぜか胸を安らがせて、エドワードは無意識にバルコニーの端まで近づいていった。夜の闇と木の葉の陰にすっかり身を潜めている男の近くへ。
「おてんば姫が元気になって抜け出したら困ると思って、見張りだ」
意地悪く笑った男に、エドワードは眉を跳ね上げ頬を膨らませる。その幼い仕種にロイは、今度はどこかやさしげな顔で笑い直した。自然なその表情に、なぜか目が離せなくなってしまってエドワードは自分の不可解な感情を持て余す。
「…なあ、…」
呼びかけようとして、人前でこそ「マスタング」と呼んでいるが、二人のときは「なあ」「おい」「おまえ」としか呼んでいなかったことにエドワードは気付いた。意識してしまうとなんと呼んだらいいかわからなくて、そこでつまってしまう。
しかし、ぱちぱちと繰り返された瞬きに男は何を思ったのだろう。ふっと笑うと、枝の上で危なげなく立ち上がり、ひらりとエドワードの脇に飛び降りてきた。驚いたエドワードが足をもつれさせるのを、腕を伸ばして抱きとめると、ロイは面白そうに目を細めた。
「呼びたければ何とでも。好きなように呼ぶといい」
「…じゃあ、…、……いい、マスタング」
ロイは一度瞬きして、「ロイでもいいんだぞ」と横柄に言った。全く、これではどちらが主なものやら。けれどいつもの通り、そんな反論は思いもつかないで、エドワードは頬を膨らませてそっぽを向いた。
「…おい」
「…なんだろうか、殿下?」
意地っ張りな姫に呆れた様子もなく、男は問い返す。すると、抱き留められた場所からとん、と一歩を下がって、夜着の上に黒い上着を羽織った少女はどことなく子供っぽい白いそれの裾を軽く持ち上げて、いっぱしの淑女のような礼をしてみせた。今度はロイが驚く番だった。何をする気かと。
「…おまえ、ダンスは踊れるか?」
「…一応、通りいっぺんは」
だがそれが、と首を捻れば、丸い頬を怒ったように、照れたように複雑に染めて、強情な姫君は小さな声でこう言った。
「…オレ、得意じゃないんだ。…だから、ドレスとか、裾踏んづけたり…教官の足踏んじまうのもしょっちゅうだし…」
ぼそぼそ言われる言葉にロイは数度瞬きして、それから顔を逸らして噴出した。
「な、なんで笑…っ!」
顔を上げたエドワードに、ロイは笑ったまま近づいた。そして、黙って細い腕を取り上げて、ホールドのポジションを取る。流れるような動きに怒りをそらされて、エドワードはむすっとしながら黙り込んだ。けれどロイはただやさしげに目を細めて見ているだけで、怒っても無駄なことにしか思えなかった。
「――では、ワルツを」
「えっ…」
「幸い私は頑丈だ。何しろ軍人だからな。遠慮なく踏んづけてくれてかまわないぞ」
くつくつと笑う顔は、エドワードのための意地悪に満ちていた。つまりは、素直でない少女が気負ったりすることのないようにという。
「……おもっきし踏んでやる」
ぶすっと頬を膨らませる照れ隠しの顔に、男はただ笑って、「どうぞおかまいなく」とすまして答えたものだった。
その日をきっかけに、エドワードはロイに(たまにだが)ダンスを教わるようになった。おかげですっかりと上達し、その上達振りは教師から女帝の耳へ入り、…そして結果として、新年を祝う宴の席では正装を纏うようにと面白がった女帝から命令されてしまうのだった。
師団長であるエドワードが皇太子としての任について席を外しているため、警備の責任者はそのまま副師団長であるロイに回ってきていた。
適当に要人との会話に付き合ったり、抜け目なく会場を見て回ったりする男は、普段であれば皇太子の付き人かというくらいに傍にいる人間だ。二人が共に揃っていると二人それぞれが盾になって話しかけづらいわけだが、好機とばかりロイに寄ってくる人間も多かった。
けれどもそれを笑顔と如才ない態度で適当に追い払い、ロイは、今の所女帝の脇で大人しくしている姫君をちらりと一瞥した。
見るからに面白くなさそうな顔をしていて、笑ってしまいそうになった。あんな顔をしていて女帝の不況を買わないのかと不安になるが、逆にあの不貞腐れた様子こそを女帝は楽しんでいるのかもしれない、とも思った。