帝国の薔薇
それくらい、エドワードが示す感情は素直なものなのだ。見ていて微笑ましくなるくらいに。
「…足を踏まなければいいが」
とりあえずまだ彼女にダンスの機会は回ってこないようだが、…成果は挙げてきているとはいえまだまだぎこちない少女の動きを思い出し、ロイは内心で苦笑した。どちらかといえばかわいいとは思うのだが、彼女の立場を思えばそうも言ってはいられまい。
「……」
ほんのしばらく見るつもりが、案外長く見てしまっていたらしい。エドワードは気付かなかったようだが、隣の雌虎陛下がロイの視線に気付いてこちらを舐めるように睥睨した。
さしものロイも背筋を伸ばして、その目を真正面から受けて立つ。彼女が何を思って自分を姪姫の子守につけたかはわからないが、最終的に引き受けると決めた自分の判断を促したのは、あの幼い姫の、姫君らしからぬひたむきさだ。だから彼女の思惑などは知らないし、知りたいとも思わなかった。
と、女帝が薄く笑って、肉感的な唇を笑みの形に引き結んだ。そして、隣に座る姪姫に何か話しかける。エドワードはぱちりと瞬きした後叔母女帝を振り返り、不思議そうに小首を傾げている。しかしすぐにその顔は緊張で引きつった。これは無理難題を言われたな、とロイは遠目にそんなことを思う。
と、女帝が立ち上がり、みなの視線がそちらに集まる。
「音楽を」
深みのある声が短く命じた。
楽隊はよどみなくワルツを奏で始める。
「エドワード」
白いドレスを纏った姫は、渋々といった様子で立ち上がった。体型に左右されないふんわりしたドレスは幼げだったが、少なくともエドワードには似合っているようにロイには見えた。
女帝は姪の背中に手を置くと、前に出るようにと促す。
「相手はどれでも気に入ったのを選ぶといい。おまえの上達を私に見せておくれ」
面白がっているとしか思えない台詞に、色めき立ったのは会場中の男達だ。言われた当人もしかしうんざりした様子を隠しもしないのだから、まあある意味大物なのだろうが。
どれでも気に入ったのを、と女帝は言ったが、それが単純に今踊る相手という意味に留まるかどうか、…勿論そう思う人間は誰もいなかった。婿として帝位に近づくことが出来る好機だと、そう思わない男など誰もいなかった。――多分、ロイを除いては。
そしてエドワードはもっと深くを見ていた。つまり、誰でもいいという言葉は自分を試すためのものであろうと。
ホールは異様な緊張に満ちて、エドワードは正直どうしようかと足をすくませた。貴族や高官の顔はさすがに知っているし、話したことのある人間もいる。悪くもないだろう、と思う相手もいる。けれど、駄目だった。自分を通して帝位を見ている男達の視線に、エドワードはどうしたらいいかわからなかった。
「エドワード。どうしたんだい?」
女帝だけはこの事態を楽しんでいるようだった。そういえば叔母は自分を困らせたりからかったりするのが昔から好きだった、と今更思ってもどうしようもないエドワードの、さまよわせた視界にひとりの男が入った。
赤い上着は普段なら自分も着ているものだ。彼にはあまり似合わない色。
「…本当に、誰でも?」
いやだ、と駄々を捏ねるかと思った姪がこちらを軽く見上げてきたので、女帝は長い睫で音を立てそうな瞬きをした後、にい、と笑った。
「あてがあるならな」
「……」
エドワードはじっと叔母を見つめた後、こくりと頷き、意を決した顔で玉座から降りていく。自分こそがと示す男達をすべて無視して、少しだけ淑女らしからぬ動きで、彼女はかつかつと人々の奥まで歩いていく。こうなってみると一体何をする気かと面白がって見る人間が増えていく。勿論、一番面白がっているのは女帝なのだろうが。
「マスタング」
恐らく幾らか緊張しているのだろう。眉をきりりと引き結んで、少女は自分の副官の前で立ち止まり、見上げた。
「――わたしの踊りは危険だから、客人方に怪我をさせるわけにも行かない。つきあえ」
「危険とは?エドワード」
玉座の高みから女帝が声をかければ、背筋を伸ばしたままエドワードは振り向いた。
「わたしは、陛下の姪ですから」
とても普通の男の手になど負えないのだ、と暗に示して切り返した少女に、女帝は瞬きした後、楽しげに笑った。
「なるほど。おまえも立派な未来の雌虎というわけだ」
自分を揶揄して言われる言葉をあっさりと口にして、女帝はいささか怠惰な姿勢で足を組み、頬杖をついた。
「――殿下」
これ以上はどうごまかそう、と内心冷や汗をかいていたエドワードを救うタイミングで、下の方から呼ばれた。反対側を振り向けば、ロイが完璧な仕種で立膝を突いていた。胸に片手を当てた礼はぴしりと端までが美しく、エドワードは瞬きした。
そうして、驚いているエドワードの手をそっと持ち上げ、その甲に唇で触れる真似をする。遠目に見たら口づけているようにも見えたかもしれないが、実際にはかすめてもいなかった。それでも、エドワードは、その物語めいた仕種に頬を淡く染めた。
「騎士の御役目を賜り光栄の極み」
下から見上げ、ロイは静かに続けた。
「僭越ながら、お相手をつとめさせて頂きます」
「…許す」
ぶっきらぼうにも聞こえるエドワードの言葉だったが、ロイは気にした様子もなく笑い、立ち上がると構えを取った。
「…ばかだな、姫。何で私なんて選ぶんだ」
そして近づいた刹那、困ったような嬉しそうなような声で小さく囁かれた。恐らく誰にも聞かれなかったはずのその言葉に、エドワードもやはり音のない声で返す。
「馬鹿はそっちだ。なにかっこつけてんだ…」
そしてワルツというにはいくらか優雅さにかけた舞踊が披露されたのだけれど、エドワードがロイの足を踏む場面は幸か不幸か見られることがなかった。
片付けも何もかも終わったホールで、ロイはひとり、柱に寄りかかっていた。見つめるのは本日の玉座である。感慨にふけるようなその顔は、憂いを帯びてすら見えた。
と、足音と気配がして彼は少しだけ体を動かす。警戒する相手ではなかった。
「なかなかうまくやっているようじゃないか」
そこに現れたのは、宮殿の主だった。開かれたドアの向こうには、懐刀が静かに立っている。ロイは肩をすくめて、今度こそ振り返った。しかしへりくだることはしない。その必要を覚えなかったからだ。
「元気そうで何よりだ。…ああ、おまえ、母親似だったんだな。随分似てきた」
振り向いた男の顔を見、女帝は喉奥で笑ってそんなことを言う。すると、余裕があったはずの男の顔が微妙に崩れた。いやそうに。
「美人で有名だった母上じゃないか。似ていることを喜びこそすれ嫌う理由はなかろうに?」
明らかにからかっている口調だったが、ロイは何も答えなかった。答えるのが臣下の義務であることはわかっているが、答えない誇りを行使した。
女帝は、取り立ててそれに対して詰ることはなかった。
「あれはいい子だろう?」
ふと、彼女の声が柔和さを含んだものになったので、ロイは怪訝に思い首を捻った。すると、ふふ、と青い目を細めて笑い、女帝は言葉を継いだ。
「…私の姉の忘れ形見だ。あの子はうんと幸せになる義務がある」