バラの名前
疲れきった時の、一々動くのも億劫そうなルルーシュの仕草は時には驚くほどの優美さを持って映ることもあったが、今は単純に疲労だけが色濃い。ジノはわずかに身じろいで背を抱いていた腕を腰へと滑らせ、顔を前に向ける。ルルーシュの肩越しに見える窓は、まだ雨の滴が細い筋を絶え間なく描き続けていた。
ルルーシュは、何が楽しいのか、ジノの長い後ろ髪を熱心に弄り続けている。少しの隙間も惜しむようにぴったりと密着した体は、まだ、ジノよりも高い体温を保っていた。
「キス、してくれないか?」
髪をまさぐっていたルルーシュの手が、不意にジノの両頬へと添えられる。そうしてそのまま、意外に強い力で顔を向かい合わせにさせられた。少なからず無理な姿勢を強いられたジノは眉間を険しくする。しかしルルーシュはひるみもせず甘い笑みを湛えていた。
「いいだろう?」
ジノはさらに眉間のしわを深くして小さなため息をつく。そしてルルーシュに触れるだけのくちづけをおとした。
「もっと」
ルルーシュは離れようとしたジノのくちびるを追いかけて、再び軽く触れあわせて、さらに先をねだる。
「今日の先輩、なんかおかしいですよ」
ジノは眉間を険しくして言い、小さくため息をついた。そうしてルルーシュを押しのけて体を起こし、ベッドから出ようと足を動かした。
「落ち込んでるんだよ、さっきも言っただろう」
「落ち込んでる人間は、こんな事をするのんですか?」
射抜くような強さで目を見つめて言えば、ルルーシュは自嘲するように表情を歪めて目を伏せた。
「何かあったんですか?」
ルルーシュは顔を上げ、微笑んでみせた。そしてジノの肩に縋るように両手でしがみついて、淡く触れるキスを繰り返す。やわらかく触れ合うくちびるは甘く、いつにない媚態に胸のうちは熱くなる。ジノは流されそうになる欲を押しとどめ、ルルーシュを引き剥がした。首の後ろに回されたルルーシュの腕に力が籠もる。赤く濡れた唇が、言いあぐねるように幾度か小さく開閉する。そうして短くはない逡巡の後に、かすれた声で言葉をつむぐ。
「スザクに、好きだって…いわれた」
迷うように揺れるまなざしを、ジノはただ見つめた。
「そう」
「ああ」
頼りない声でそう答え、ルルーシュはジノの首に回した腕にきつく力を込めて抱きついた。
ルルーシュがジノと同じ人に思いを寄せていることに気づいたのは、いつのことだったか。それは、もうだいぶ遠い昔のことのように思えた。互いに、きっかけは9割の八つ当たりの勢いと1割の好奇心。互いに同じ相手を重ねて見る、不毛で実に馬鹿馬鹿しい傷のなめあいだとわかっていたのに、ジノはルルーシュを抱いた。……スザクとルルーシュに重ねてみえる部分なんて、どこにもないのは分かっていたはずなのに。破綻はいつも目の前にちらついていたが、不思議な均衡でもって季節を一巡するほどの時間が流れた。
そんないびつな関係のなかで、ジノが、ルルーシュという人間にみていた色は、劇的に変わった。先読みと計算に裏打ちされた言動が崩れたときにみせる、表情や仕草のあまりの無垢なやわらかさに気づくのに、そう時間はかからなかった。
そうして気づいた時にはすでに引き返しようのないところまで惹かれていた。
「おめでとう、って、いうべきですか?」
声は自然と低くなった。心臓を掴みだされるような、痛いほどの胸苦しさで鼓動がひどくざわついていた。
「おまえは失恋だな」
ルルーシュは小さく笑った。絡み合ったままの視線をはずす事もできず、互いにただ静かに見つめ合う。紫色の眸が緩やかに潤んで色を深くする、その様をジノは心の内で嘆息する。おそらくもう二度と見ることの叶わない、その色彩に。
「もうここには来ない?」
答えを知っている問いをするのは無駄なことだと思っていたはずなのに、その無駄な行為を、自分は、今、している。
ルルーシュはゆったりと目を瞬かせて、それからさっきよりも少し深く頷いた。
「……ああ」
「それで何で…落ち込む理由なんてないでしょう?」
ずっと、欲していたものを手に入れたのだ。その喜びを帳消しにしてなお余りあるほどの何かがあるというのか。
ジノの首に回された腕の力が抜け、そのままルルーシュの両の手がジノの胸に縋る。しばらくの逡巡のあと、ルルーシュはわずかにうつむいてジノから目を逸らし、かすれた声で呟いた。
「オレは……」
「行くな」
ジノは考えるよりも早く、言い差したルルーシュを、半ば声を荒げて遮っていた。そうしてビクリと震えたルルーシュの両肘を手のひらで包むように掴む。ルルーシュは言葉を切ったまま、薄くくちびるを開いて、ジノの方へと顔を向けた。けれど、ルルーシュの眸は焦点をどこにも引き絞っておらず、ただ、深い闇のような紫色がゆらゆらとたゆたっていた。
「行かないで」
失いたくなかった。ルルーシュを、そして、ルルーシュと過ごす全てのときを。
……そのねがいが叶えられることは決してありえない、ということを知っていたはずなのに。
小さな惑星に咲くたった一輪の赤いバラのように、ガラスケースで囲って自分だけのものにすることができたなら。埒もないそんな感傷めいた思いが、どうしようもなくジノを苛んだ。
やがて紫色の眸を揺らめかせていた薄い膜は、大粒の滴になってまなじりに溢れるほどになった。ジノは、ルルーシュのまなじりに浮かんだ涙をくちづけて拭い、ルルーシュの頬にかかる長い前髪を指先で撫ぜた。
「どうして先輩が泣くの」
ルルーシュの指先やくちびるは、わずかに戦慄いていた。そうして息を飲んだルルーシュはジノをまっすぐに見つめる。
「おまえのかわりに泣いてるんだよ」
再び涙の滴がまなじりに大きな粒をつくり、やがて頬に一筋の跡を残して零れ落ちた。
「どうしてもっと早く気づかなかったんだろう……」
ルルーシュはわずかに震えた声でそう言うと深くうな垂れた。温かな滴が膝の上に丸く染みを残す。
「スザクに好きだと言われたのにオレは全然うれしくなんてなかった」
悔恨をはらんだような低い声音で、ルルーシュはさらに早口でそう続け、ため息のように長い吐息をつく。
「あんなに……好きだったはずなのに」
搾り出すような、痛みを耐えるような、かすれた呟きが辛うじてジノの耳に届いた。
ルルーシュの肘を掴む手のひらに無意識に力がこもる。ジノは目を閉じた。得体の知れない腹の奥ひどくざわつく何かをむりやりにねじ伏せ、ルルーシュに触れていた手のひらを離す。淡い期待と、色濃い後悔がジノの胸を押しつぶした。
「もう一度、言ってくれないか」
何を、と問いそうになったが、ルルーシュとまともに視線が交じり合い、求められたのだろう言葉は、驚くほど簡単に口をついて出た。
「行かないで」
言ってしまえば簡単なものだった。ジノは放せたはずのルルーシュを再びきつく抱きしめる。
「……傍にいて、ルルーシュ」
声は震えた。ルルーシュの背を抱く腕に力の加減などできなかった。
「傷つけてぼろぼろにしてやろうと思ってたのに」
抱きしめる温もりが、ジノの耳元にささやく言葉はいつも冷淡で残酷だった。そうであるべきはずのその声が、今はすこしふるえていた。