水の器 鋼の翼1
凍りつく足を何とか動かして、レクスは脱出口である階段へ向かおうとした。その時。
「レクス……」
何よりも聞き慣れた懐かしい声が、背後でレクスを呼んだ。ルドガーの声だ。思わずレクスは声に答えて振り向こうとしたが、身体がそれを許してくれない。心の奥底で何かが訴えている。振り向けば一巻の終わりだと。
「レクス」
声に答えずに、レクスはぎこちない足取りで階段へ急ぐ。傍から見れば、何と滑稽なことだっただろう。レクスの努力も空しく、声の主は容易く彼に追いついた。
「レクスよ」
違う。これは兄ではない。兄であって兄ではない。自分とは違う、何か別のイキモノだ。レクスは、振り向きたい欲求に無理やり言い聞かせた。
気づけば、黒い煙、いや霧が辺りを包み込もうとしていた。これは、モーメントから流れ出たものなのか。モーメントが暴走の果てに火災を起こしたのか。それにしては、何も匂わない。焦げた匂いも何も。全くの無味無臭だ。その霧を縫うかのように、たくましい右腕がレクスに向かって伸ばされる。その腕には、暗紫色の輝きが宿っている。いくつもの脚を生やした、禍々しい生き物。その脚が、兄の右腕を借りてレクスに届こうとした、正にその瞬間。
「!」
ぱあん、と乾いた音がして、伸ばされた兄の腕がレクスから弾かれた。続いて、どさっと何者かが倒れる鈍い音がした。呪縛から解かれたレクスの脚は、勢いをつけて階段へと駆けていく。
「レクス……」
呼びかけに答えることなく、レクスは階段を一気に駆け上がった。ルドガーらしき人物が追ってくる様子はなかった。
全速力で階段を上がっていくレクス。その心には、ぐわんぐわんと様々な思いが交差する。
つい先ほど、ルドガーと黒い霧からレクスを守った物。レクスにはすぐに分かった。これは、託された「腕」とカードの仕業だと。ルドガーを虜にしたモノとは正反対の、人間に味方してくれる清浄な力。だが、今のレクスは、それすらも呪わずにはいられなかった。
――何故だ。「お前たち」に、私を容易く守れるすごい力があるのなら。
――どうして、今の私と同じように、兄さんを救ってはくれなかった……!
長く暗い階段をかい潜り、レクスは地上への出入り口に到達する。
その日最初の太陽が、レクスの網膜を白く焼いた。