水の器 鋼の翼1
4.
街角に闇市が立っている。木切れとぼろ布でできた粗末な屋台が、沿道ぞいにずらずらと並ぶ。見る限り、品ぞろえはあまりいいものではない。それでも、生活の糧を求める人間で辺りは活気づいていた。気を抜けば、人波にさらわれそうなほどのごった返しだ。
レクスは、背中のリュックサックを人ごみから庇うようにして闇市を進む。リュックサックは、数日前に闇市で手に入れた品物だ。ずたずたぼろぼろで金目の物など入っていないように見えるそれには、レクスにとって大事な物がいくつか収められている。
――モーメントが暴走の限りを尽くしたその爪痕は、モーメントの周辺、西ドミノ地区に深々と残った。西ドミノ地区はドミノシティから切り離され、一つの孤島と化した。この地域より西に行けば、大きな断崖絶壁が更に島を二つに分けている。レクスは一度その断崖を見に行ったが、走る亀裂はあまりに深く、ついに底は見えなかった。
モーメントのすぐ近くは、爆風にさらわれて細々とした瓦礫しか残っていない。少し離れたこのビル街も、ガラスは吹き飛び外壁はひび割れ、無残な姿を日の元に晒している。それでも、ここの住人にとっては貴重な住居だ。レクスもまた、ある一つのビルの一室を住み家にしている。
孤島と化した西ドミノ地区に届く救援物資は乏しい。惨劇の直後は、物資の奪い合いが幾度となく起こった。船が着けるようになって、細々ながら物資が届くようになって争いの頻度は格段に減った。だが、この状況は決して豊かな物とは言えなかった。
レクスは、ある工場跡に足を踏み入れた。レクスの前にも何人もここにやって来ているようで、廃工場の寂しい風景が一転して毎日のようににぎわっている。
殺風景なパイプの配管をくぐると、紺碧の海がよく見えるポイントにたどり着いた。そこには、異様なほどの人だかりがある。海辺までやって来たレクスは、目を細めて海の向こうを眺めやった。紺碧の海を隔て、ドミノシティが霞んで見える。レクスが勤めている海馬コーポレーションの本社ビルも、堂々とした姿でそびえ立っている。
「あ、ねえねえ見てみて! でっかいクレーンが見えるよ!」
「ああ、そうだねえ」
小さな子どもが、無邪気に海の向こうを指差している。傍にいる男性は、子どもの親なのだろうか。嬉しそうな子どもの頭を撫でてやりながら、一緒になって海の向こうにある物を眺めている。
ここにいる人間の目的は一つだった。シティ側で建造している、大きな橋の見物。今は遥か遠くに見えるだけの橋だが、完成すればこちら側からシティに自由に行けるようになる。生き残りたちにとっては、まさしく希望の橋だった。
レクスは、他の生き残りたちと一緒になってシティ側の橋を見つめる。白いミニチュアのように見えるその橋では、クレーンやトラックが、日光で銀色にきらきら光りながら、せかせかと動いていた。
レクスは、数日前のことを思い出す。
第一モーメント研究所から命からがら脱出してから三日後、レクスはKC本社に連絡を試みていた。
制御カードと「腕」の他は、着の身着のままで脱出する羽目になった。研究所からは何も持ち出す余裕などなかったが、幸いにもレクスのスティック型携帯端末は白衣のポケットに放り込んであったので、脱出時に一緒に持ち出すことができた。この端末は、研究用だけでなく、他の端末との交信機能も備えている。電池切れさえしなければ、この端末こそがレクスの命綱となってくれるはずだった。
数回のコールの後、回線はようやくMIDS本部に繋がった。
《はい。海馬コーポレーション、MIDS本部です》
「第一号モーメント研究所の、レクス・ゴドウィンです。本部長はいらっしゃいますか?」
事務の女性の息を飲む音の後、がたんごとんと向こう側で物音と慌てるような声が聞こえた。ややあって。
《レクス君、無事だったのかね! 連絡がなかったから、本社では君たちを心配していたのだぞ!》
「済みません。こちら側も、ごたごたしていたもので」
《不動博士とルドガー博士は? そこにいないのかね?》
「彼らはここにいません。モーメントの爆発に巻き込まれて、現在もなお行方不明です」
レクスは、これまでの出来事を一気に喋った。不動博士を襲った黒服のこと。モーメントが起動し、暴走したこと。シェルターで自分一人生き延びていたこと。自分の知っている中で、話せそうなこと全てを。
本部長は黙ってレクスの話を聞いていたが、話が終わると大層歯切れの悪そうな口調で答えた。
《よ、よし。大体の状況は理解した。ところで、レクス君。君は、その――モーメントのことを、他の誰にも言ってないだろうね?》
「……? はい。まだ誰にも」
ほっとしたようなため息が、ぼうっと端末の向こうで響いた。
《それなら、しばらくこのことは、内密で頼むよ。ほら、これ以上パニックになってもまずいし、な》
「あ、そうですね。分かりました」
《君へ救援を送るのは、もう少し後になりそうだ。それまでしばらくそちらでがんばってくれ。こちらからは以上だ》
本部長の言葉を最後に、通信はあっけなく切られた。
レクスは少し気になった。KC本社は、モーメントの事故の詳細をどこまで知っているのか。どのようなタイミングで世間に公表するのか。一抹の不安が、レクスの脳裏を過ぎ去る。
「まあいい。こちらは本社からの救援を待つだけだ」
救援が来れば、地獄のようなこの島から離れられる。モーメントの危険性を本社に訴えることができるのだ。今のレクスには、それだけが希望の源だった。
近くで、一際大きな歓声が上がった。生き残りが三人、いかだに乗って大海原に漕ぎ出そうとしている。水に浮く廃材を片っぱしから集めてまとめ上げたそれは、みすぼらしいものではあったがちゃんと海に浮かんでいた。
救援部隊を待ちきれなかった連中は、集まっていた人々に見送られ、意気揚々とシティへと乗り出して行った。