15年先の君へ
その0
帰宅すると、デスクの上に見慣れない封筒が置いてあった。緑青色のそれは既に封が切ってあり、中を見れば宿泊券が二枚入っている。
同封されてあったガイドブックに目を通して、俺はソファで煙草を吹かす背中に声をかけた。
「ねぇ、何これ」
「新羅たちから貰った」
こっちを振り返りもせずに端的に答えだけ告げた男を一瞥し、俺はふぅんと相槌を返す。
首なしのデュラハンは大抵の場所は出入りが難しい。フルフェイスのヘルメットでも被っていればいいのだが、室内でもずっとそのままなのはどう考えても怪しい。
セルティはそのことがわかっているから敢えてそういった場所に赴こうとしないし、相方の新羅はあまり気にしてないようだが、彼女が衆目を浴びて懸想されるのではという杞憂だけはあるようだ。
だからこそ、あの二人がわざわざ宿泊券を持っていたこと自体が少し引っかかる。誰かに貰ったとしても、俺たちに譲ったところでその魂胆が透けて見えた。
大方、これを機に親睦を深めろとでも言いたいのだろう。余計なお世話だ。池袋最強と呼ばれた化け物と、仲良く遠出する必要はない。
「行くの?」
「…せっかくだからな」
「どうせ俺と行けって言われたんだろ?」
淀みなく続いていた静雄の声が途切れる。代わりに溜息のような紫煙が吐き出され、俺は図星だと内心でほくそ笑んだ。
「俺はごめんだね。こんな人の少なそうな、何もない田舎。面白くもない」
「…手前が行かねぇなら、それでいい。俺ひとりで行く」
そう言い切った静雄に、俺はカチンとくる。仮にも夫婦と呼ばれる間柄ならば、しおらしく頼み込めばいいのだ。
まただ。俺は最近、こうやって苛々することが多くなった。
平和島静雄を陥れて、夫婦の約定を取り付けてから数年が経つ。誰よりも人から愛されたかった男は、俺の言葉を鵜呑みにしてまんまと騙された。俺自身を天秤にかけた甲斐あって、あのときのシズちゃんの顔は人生の中で一番の傑作だった。
嘘だとばらして、自分の足が折れようが何しようが暴れ回ったシズちゃんは、己が婚姻した事実を理解すると打って変わって大人しくなった。
たまに切れるが、それでも何かに諦めたような、そんな顔をして受け流す。初めは可笑しかったそれも、最近では妙に苛ついた。
物欲しげな顔をするくせに、何も言わない。言えばいいのだ。そうすれば俺は、この下らない茶番に付き合ってやる。
俺は歩を進めてソファに前に立つと、吸いかけの煙草を奪い封筒に押し付けた。
睨みつけていた視線が、ほんの少しだけ揺れた。それに気を良くし、真っ黒な焦げ後が残るそれを目の前でひらりと振って、満面の笑みで告げてやる。
「行ってあげようか?」
答えはなかった。それでも視線は何か言いたげで、俺は笑い声をあげてキスをした。
煙草の、酷い味がした。
辿り着いた駅には人ひとりおらず、目の前には田園が、振り返れば海が広がる絵に描いたような田舎の風景だった。
俺にはまるで興味がないが、最近ではアメニティだ何だと言って、こういった田舎に癒しを求める旅行も人気があるらしい。
電車で来た道中一言も会話を交わさなかったシズちゃんは、サングラスの奥で陽に光る海を見ていた。いつまでもそうしているので、荷物が重いと文句を言えばようやく動き出した。
こんな田舎でもさすが宿泊券が送られただけあって、旅館はかなりのものだった。荷物を預けて一息つくのかと思えば、シズちゃんはさっさと外出してしまい、仕方なく後を追った。
どこに行くのか訊ねても、知らねぇ、わからねぇの一点張りで俺はほとほと呆れた。海に行ったかと思えば次は山道で、歩くことには慣れているが、砂に足を取られたり草をかき分けるのが難儀で俺の機嫌は悪くなる一方だった。おまけに、ほとんど人の姿がないのだ。人間観察もあったもんじゃなく、どこかの畦道を歩いている途中でとうとう声を上げた。
「いい加減、疲れたんだけど」
そう言っても、シズちゃんの足は止まらない。ねぇ、と呼びかけたところで、ようやく振り返った。
「歩いてばっかで何が楽しいんだか」
「手前はさっきから文句ばっかりだな」
呆れたように言われ、ムッとしているとシズちゃんの足先は横に逸れた。後に続けば、ちょうど木陰になった草むらがある。そこに腰を下ろした静雄を確認して、俺もまた座り込んだ。
足元では虫が跳ねるし、暑いし、全くもって楽しくない。ここに来てまだ半日しか経っていないが、俺は早々に来たことを後悔し始めていた。
当の静雄は目の前の空を映す田んぼを眺めていて、周りの景色に、サングラスとバーテン服がとても似合わない。
「…ジジイになったら、こういうとこに住みてぇな」
ふとシズちゃんがそう零す。俺は、は、と笑ってやった。
「俺は嫌だね。こんな何もないところ。退屈で死にそうだ」
言い放てば、静雄が小さく溜息を零す。何だと見遣れば、呆れた声が聞こえてきた。
「前から思ってたけどよ、手前はロクな死に方しねぇな」
辛辣な言葉だ。思わず、ははっ、と声が上がる。
「そうだね。俺は死んでも構わないさ。死後の世界が保障されているのならね」
「…天国、か?手前の場合は地獄だろうがな」
「別に何でもいいんだよ。俺は、俺の存在が消えることが一番怖い」
まぁ出来ることなら、天国の方がいいけど。
そう付け足してやると、シズちゃんは首を傾げて、よくわかんねぇと呟いた。
「言っておくけど、シズちゃんもロクな死に方しないから」
「あぁ、ま、そうだろうなァ…」
自分のことだと言うのに否定せず、寧ろ肯定した男はぼんやりとそう零す。自分がどれほど人に迷惑をかけて生きているのか、自覚があるらしい。
俺はシズちゃんの、こういったところが大嫌いだ。化け物のくせに、人間染みた一端の感性がある。
それから、俺たちはどちらともなく口をつぐんだ。風が水田の水面を波立たせ、木々を揺らし、俺たちを通り過ぎて行く。
隣を見れば、金色に染められた髪が揺れていた。その、全身で風を受け止めた男は、ふっと微笑んだ。
「手前とこんな話すのも、久しぶりだな」
その言葉に弾かれるようにして、俺は視線を逸らす。そう言えば、こんな取り止めのない会話をしたのは久しぶりだった。
同じ家に住んでいるというのに、俺たちは満足に話すこともない。
今思えば奇妙な関係だ。飽きたら破棄するはずだった婚約は、こうして今でもずるずる続いてしまっている。
そろそろ三十路を迎える俺たちが、何をやっているのかと思わないわけでもない。
だがどうにも切り離せない。大嫌いなはずの存在に、どうして俺は手を出してしまったのか。
(…おもしろくない)
彼の言葉に、その笑顔に、揺れる己の心情が気に入らなかった。
俺は彼に言いようのない仕打ちをしたのに、何故楽しそうに笑うのだろうか。
彼はどうして、いつまでも俺の隣に居るのだろう。
馬鹿な話だった。そう仕向けたのは俺なのに、それを受け入れる平和島静雄という存在が、俺にはわからなくなりつつある。
思えば昔からそうだった。昔から、シズちゃんだけは俺の思い通りにいかない。それが腹立たしいのだ。
「…ここ来て、よかったな」