15年先の君へ
その6
ファーストフード店を出ると、冷房でガンガンに冷やされていた店内とは打って変わって生ぬるい空気が俺たちを包んだ。その湿気に思わず顔を寄せつつ、俺は数歩先を行く臨也の後を追う。
先ほどの助言を忘れないように頭の隅に留めながら、果たして怒りを覚えた俺がどこまでこいつの指示に従えるのだろうかと少し陰鬱な気持ちにもなる。
怒る前ならいいが、一度頭にくると他のことが一切飛んでしまうのだ。
一方の臨也はやけに上機嫌で、やじろべえの如く両手を広げバランスを取りながら、鼻歌でも歌いそうな勢いで縁石の上を歩いていた。
だが、次の瞬間不意に奴が足を滑らせる。倒れたのが歩道側だから良かったものの、俺は何をやっているのかと呆れ返った。
「おい、何こけてんだ?」
倒れたまま動かない奴に近付いた。打ち所でも悪かったのか、起き上がる気配が無い。
「おい?いざ、」
や、とその名を口にしかけたところで、俺は全身に嫌な予感を感じ取った。口で表現することのできない、独特な感覚だ。あえて言うのなら、くさい、というのが的確だろう。
思わず俺は振り返る。人通りのない道の奥に、闇に溶けかけた人影を見た。
「おやぁ?シズちゃんがこんな時間まで夜遊びとは、珍しいねぇ」
奴が歩を進めるごとに街灯がその姿を照らし出した。真っ黒な制服に身を包み、その瞳だけが不気味な光を放っている。
「…臨也」
思わず俺はその名を口にした。だが今日俺に追われていたこいつと比べて、随分と生傷が多い。その顔にも、何かで切られたような切り傷があった。
「手前、なんだその様は」
「シズちゃんこそ、大層な包帯巻いてるね。もしかして折れた?」
昼間のことを思い出し、俺は気分が悪くなる。ギリ、と歯を食いしばった。
「おっと、そう睨まないでよ。今回ばかりは、君に用はない」
臨也はそう言うと、懐からナイフを取り出した。街灯に銀色に光るその切っ先は俺じゃなく、その隣へと向けられていた。
「そっちの男に用があるんだよね。っていうか、いつまで寝てんの?」
俺は静かに息を呑んだ。そうだ、今のこいつが居るってことは、未来のこいつは今やべぇんじゃねーのか。
出方を窺っていたらしい臨也は、動かないと判断したのか一歩足を進めてくる。
「こそこそ逃げ回ってさぁ。苦労したよ、君の尻尾掴むの。おかげでまぁ、いくつか取引先が潰れたけどね」
徐々に近付いてくる臨也に、俺はハッとして脇にあった街灯に手をかけた。
だが流石に、片手だけでは引っこ抜けない。指の形に凹むそれに苛つき、俺は包帯を引き千切って両手で掴んだ。
渾身の力を込めて引き上げる。ガポリと、根元にコンクリートをくっつけたままでそれは宙に浮かぶ。頭上の明りがバチリと消えた。
俺はそれを構えなおすと、臨也の前に立ちはだかる。気付いた臨也が、少しばかり瞠目した。
「…へぇ、君が誰かを庇うのなんて、初めて見た」
口では笑っていながらも、臨也の野郎は明らかに殺気に満ちた目で睨んできた。疑念と嫌悪が嫌というほど伝わってくる。
「ますます興味深い。あの平和島静雄が守ろうとする人間なんて」
臨也はじりじり歩を進めてきた。今までの俺ならとっくに地面を蹴って殴りかかっているところだが、今回は勝手が違った。
もしここで俺がこいつの前を離れれば、すばしっこい臨也は間違いなく俺の一撃を逃れ、こいつへと近付くだろう。
それだけは避けなければならない。今のあいつは、抵抗できないただの人間だ。ナイフを持って近付いてくる臨也に青筋を立てながら、俺は必死に衝動を押し殺していた。
「それ以上、近付くんじゃねぇ」
怒りを吐き出すかのように、低く殺気を帯びた忠告を飛ばす。臨也はナイフを手にしたまま肩をすくめた。
「別に殺すつもりはないよ。このナイフは君に対抗するためと、護身用。俺はただそいつに興味があるだけだ。…そうだな、できれば、話くらいはしてみたいけど」
未来のこいつと今のこいつを、会わせるわけにはいかねぇ。何故か俺はその一心で街灯を握っていた。
臨也から俺を守れとは一言も言われていない。これは全て、俺の感情によるものだった。
一番驚いているのは俺自身だ。いつの間にか俺は、こんなにもこいつのことを信用していたらしい。
攻め寄る臨也が、ふと動いた。手にしたナイフを、倒れる臨也に向けて投擲する。
何が殺すつもりはないだ、と俺は街灯を振り回し刃を防いだ。横に跳躍した臨也を目で追い、それが得物の範囲内だと認識すると思いっきり振りかぶった。
派手な音を立てて金網のフェンスがぺしゃんこになる。土煙のあがるそこに臨也の姿はなく、周りを見渡せば奴は俺たちを通り越し、背を向けて駆け出していた。
(逃げる気か…!)
逃がすか!と吐き捨てて後を追った。後になってみれば怒りに身を任せた俺はなんて単純なのかと、自分でも思う。毎回臨也の罠に嵌るわけだ。
そのときだって、あの臨也がそう簡単に獲物を諦めるはずがないとわかっていたはずなのに。
臨也を追って、路地へ路地へと入り込む。その背を捉えたところで、街灯を振りかざした。
が、場所が悪かった。
ここは先ほどの大通りとは違う。ビルとビルの隙間で長い棒を回したようなもので、鉄の棒は両側のコンクリートの壁に深く突き刺さった。
予想外の出来事に気を緩めた一瞬、臨也の奴が反転する。ビルの間に突き刺さる街灯へと飛び、それを踏み台にしてとんと跳ねた。
(野郎…!)
すれ違う一瞬だけ目が合ったあいつは、にやりと口元を歪めていた。嵌められた。
俺はその事実に沸々と怒りを溜め、めり込んだままの街灯へ更に強引に力を込めた。
途端、ボキリと嫌な音が身体の中から響いた。それと同時に右腕に力が入らなくなる。
少しだけ、ずきんと響く痛みを感じた。
(折れたな)
もともと折れていたものを酷使したせいか、くっつきかけていたそこか、もしくは別の骨が折れたらしい。
舌打ちをして左手の腕力だけで押し通す。壁を抉りつつ抜けたそれを抱え、反動で崩れたバランスに持ちこたえると、すぐさま臨也の後を追う。
大通りへと戻ったとき、奴は倒れこんだ臨也の隣へと既に進んでいた。
「いざやぁあああ!!」
ありったけの怒りを込めてひしゃげた街灯を投げる。倒れたあいつに当たらなかったのは幸いだが、同時にこちらを見て笑みを浮かべるあいつにも当たらなかった。
街灯をかがんで避けたあいつはそのままその場にしゃがみ込んだ。何事か口にし、臨也の顔にかかるサングラスへと手を伸ばす。
(まずい…!)
あと少しで届くのに、と俺が心中で焦りを感じた瞬間。
倒れていたはずの臨也の手が動く。サングラスを掴む臨也の腕を、掴み上げた。
「……それに触るなよ、ガキが」
語気こそ弱々しい声だったが、臨也から吐き出された言葉に臨也のみならず俺さえも耳を疑った。
恐ろしく低く、また腹の底から憎しみを吐き出したかのような声だ。
あいつのそんな声は、初めて聞いた。
驚いて後ずさる臨也目掛けて、俺は拳を打ち込む。足音に気付いた臨也が、咄嗟にその一撃をかわした。
はぁはぁと肩で息をしながら、俺は倒れる臨也の前に再び立ちはだかった。目の前の臨也は混乱しているようで、咄嗟に言葉が出ないらしい。