15年先の君へ
その7
あれからぱたりと、折原臨也からの連絡は来なくなった。
東京から姿を眩ますとは言っていたが、いつになったら帰ってくるのだろう。
高校生の臨也は相変わらず俺に仕掛けてきていたが、その回数も減っている。
あいつが予想した通り、“自分と瓜二つの人間が居た”という事実を探るべくどうやら動き回っているらしい。
俺は入学以来の真っ当な高校生活というものを初めて満喫していた。なのに、どうしてこうも気が晴れないのか。
理由なんて、わかっていた。
蝉の声もだいぶ大人しくなってきた夏の終わり。野球部がキャッチボールを繰り返すグラウンドを窓越しに眺めて、重苦しい溜息を吐き出す。
「どうしたの?溜息なんて珍しい」
放課後。臨也の所為でことごとく授業を受けられなかった俺は、最近新羅から勉強を教えてもらっていた。
その新羅が、俺の回答を添削するなかで先ほどの溜息を聞きつけたらしい。俺は、いや、と否定の言葉を吐こうとして、思い留まる。
そういえば、こいつはセルティに周りがドン引きするくらいの恋愛感情をぶつけている。
呆れていたそれだが、最近はそうやって明け透けに想いを伝えられる新羅が、少し羨ましくもある。
「…新羅」
「なにかな?」
「恋ってなんだ?」
新羅が持っていたペン先が、ノートに長く赤い線を描いた。どうやらペケをつけようとしてそのまま滑ったらしい。
何やってんだと顔を見れば、にこにこと笑顔を浮かべていた。
「ごめん、どうやら僕は夏の暑さで耳が遠くなってしまったらしいんだ。今年は取り分け猛暑だったからね。だからきっと聞き間違いだよねうんそうだよね。というわけで静雄くん、もう一度言ってくれないかな?」
「だから、恋って」
「あああ!そうだ昨日セルティがね!」
「オイ」
わざとらしい話の逸らし方に、新羅の鼻を摘んでやった。俺としては軽くしたつもりだったのだが、手で鼻を抑えたまましばらく新羅は顔を上げなかった。
「もげ、もげるかと思った…」
「んな強く引っ張ってねーだろ」
「静雄はさ、もうちょっと自分の力がどれだけのものなのか、そして私の身体が一般男子高校生の中でも群を抜いてか弱いということを頭に留めておくべきだよね」
「手前が話を折るからだろ。つーかごちゃごちゃうるせぇな今度こそ全力で潰すぞ」
「全力でごめんなさい」
机に頭をつける新羅に、湧き上がっていた怒りが有耶無耶になる。顔を上げた新羅は、それにしても、とようやくまともに口を開いた。
「どうしたんだい?静雄が恋とか。まさかとは思うけど、好きな人が出来たとか」
はははと声を上げる新羅に対し、俺は目をそらせる。一方の新羅はそんな俺の態度を是と捉えたらしく笑うのを止め、え、本当に?と冗談だと言わんばかりに訊き返してきた。
「…わりーかよ」
ムスッとして言い返せば、新羅は眼鏡の奥の瞳をぱちりと瞬かせたあと、いやいやと首を振った。
「人の恋愛は自由だからね。僕がセルティを愛するように!他人が口出しするのは野暮というものだよ。まぁ中にはそれを生きがいとする最低な趣味の人間もいるけどね。誰とは言わないけど。いやでも、ふーんそうか静雄の好きな人かぁ。どんな人なんだい?」
ペラペラと口を動かした新羅は、頬杖をついてにっこり微笑んできた。
どんな人、と言われても、現在ここに存在する折原臨也の十五年後の人間だと言えるわけもない。
しばらく黙って、ぼそりと答えた。
「年上」
「へぇ!君って年上好きなんだね!奇遇だね!僕もだよ!!」
もっとも彼女は俺が生まれる前からずっとだの何だの話が続くが、いつものことなので聞き流した。
セルティのことになるとこいつはいつもそうだ。息をついて、目を輝かせ陶酔する新羅の額を今度はデコピンで小突いた。
「…戻ってきたか?」
「おかげさまで。危うく別な世界に飛んで行きそうだったけどね」
新羅は赤く腫れた額を擦り、涙目のまま俺を見返した。
「それで、その年上の彼女がどうかしたのかい?見たところ、随分悩んでるようだけど」
俺は彼女じゃねぇんだけどな、とぼんやり思いながら再び溜息でもつきたくなった。
「向こうからたまに連絡があったんだけど、最近来ねぇんだよ」
「フム。それってどれくらい連絡ないの?」
「あー…一ヶ月、か?」
「そっか。静雄から連絡してみた?」
その言葉に、俺は机に置いた携帯に触れてみた。元より頻繁に使われてなかったオレンジ色のこれは、最近ではめっきり静かになっている。
「してねぇ」
「え、なんで?」
「俺からはすんなって言われてる」
淀みなく続いていた新羅の問いかけが止まる。不思議に思い視線を上げてみれば、奴は妙に神妙な面持ちで俺を見ていた。
「その…年上って、何歳くらいの人なの?」
「確か、30っつってたかな」
「さっ…!!」
パクパクと新羅が絶句する。なんだと思っていると、勝手にぶつぶつ喋り始めた。
「いや、さっきも言ったように人の恋愛は自由だけどね。静雄が熟女好きだとは知らなかったし。ただその、さぁ。ぶっちゃけて訊くけど」
と改まって新羅が顔を寄せてくる。教室には俺たちしか居ないのに、まるで周りを憚るように声を潜めた。
「不倫とかじゃない、よね?」
一発ぶん殴ってやろうかと思った。額に青筋が浮かぶが、待てよ、と俺は思いとどまる。
確かあいつは未来の俺と結婚しているはずだ。となるとこれは不倫になるのだろうか。いやその前に俺が一方的に好きなだけだろう。でも、結婚相手は俺なわけだし、そうなると。
いろいろと考えを巡らせていると、わけがわからなくなってきた。
考えるのを止めて、適当にけりをつける。
「たぶん、大丈夫だ」
「たぶん!?」
新羅の声が裏返る。ずれた眼鏡の位置を直して、いやいやと呟いた。
「それ、臨也には言わない方がいいよ絶対」
「誰が言うか」
そんな真似は死んでもしない。あいつは今日、放課後になると同時に早々に下校したことを知っている。だからこうやって今、この話題を口にしたのだ。
だいたい俺はあの一件以来臨也の野郎が輪をかけて嫌いになった。ただあいつが今死んだら、未来のあいつも消えるのかと思うと、それだけが唯一気に掛かる。
ハァとまた溜息が零れた。机の向こうがやけに静かになり、顔を上げてみれば、新羅がニヤついた顔でこちらを見ていた。
「…何笑ってんだ?」
「いやぁ、静雄も恋をすると可愛いもんだね」
男にそんなことを言われても嬉しくない。それも首がある女には興味がない超弩級の変態だ。
「そんなに好きなら連絡すればいいのに。会いたいんだろう?駄目だと言われていてもやらずにいられないのが恋愛の恐ろしいところだよ」
そう言われて、俺は答えることが出来なかった。ただ胸中を言い当てられたことに僅かに顔に血が昇る。
確かに、そう思ったことは何度となくあった。だけどそれであいつから嫌われたらと思うと、うまく進めずにいたのだ。
誰かを好きになるのは初めてではなかった。だが今までその気持ちは、自覚すると同時にこの力で潰されてきた。
俺は人を好きになってはいけないのではないか。最近はもうずっと、そう思い続けていた。誰かを好きになると不幸になる。俺自身が、不幸にしてしまう。