春の目覚め・3
「プロイセンから頼まれていた人物の所在地だ。分かったらお前に教えろと言われてたんでな。それだけだ。邪魔したな」
口早に言い、これで用は済んだとばかりにさっさと立ち去ろうとするイギリスに、紙に書かれた内容を読んだドイツが唖然としたまま、それでも小さく「Danke」と呟くのが聞こえた。
イギリスは軽く肩を竦めるジェスチャーをしてみせただけで、本当にそのまま立ち去ってしまった。
紙には、大戦の末期に会ったあの大佐の息子が生きていること、西ドイツ側で暮らしていることなどが記されていた。来週に開かれるヴァルキューレ作戦に参加したものたちを弔う式典に出席することまで書かれている。
ドイツは、ゆっくりと上着のポケットから小さな布に包んだ鉄十字を取り出して見つめる。自決を強いられた大佐の亡骸から外し取ったあの鉄十字。
いつか、生き延びた親族に会うことがあればこれを返そうと思い、持ち歩いていたものだった。
君たちの父君は立派な軍人だったと伝えてやりたいと、密かに願い続けていたものだった。
プロイセンがイギリスに頼みごとをしていたことにも驚きだったが、それ以上にドイツの取るだろう行動をすでに読まれていたことに、泣きそうになってしまう。
いつだって、プロイセンはドイツの一歩先を歩いていたのだ。今でも、未だに追いつけないでいる。
「兄さん…」
子供のように形振り構わずに泣き喚くことが出来れば、どんなに楽だろうか。そんな虚しい思いが胸中を占めていた。
敗戦から数年が経過した今、ドイツに住まう年老いた者たちは、物悲しそうに祖国の地を眺め、一様にこう呟いていた。
「私たちの知っているドイツという国は、1945年に一度死んでしまったのですよ」
国の化身という存在を知らぬ庶民たちの口から呟かれる言葉。
そんな国民を見つめながら、ドイツは本当にそうかもしれないな、と他人事のように考えていた。
プロイセンという後ろ盾を無くしたドイツに、価値はあるのだろうか、と。
己の存在意義すらも見失いそうになる日々だった。
息苦しくて仕方がない日々を過ごすばかりだった。
すべての戦犯を背負い、一人で悪の名を受け取り、闇に葬られてしまった亡国。
その国の名を口にすることさえタブーとされてしまった今でも尚、決して忘れたくないと、その影を必死に追い求めるしかない日々だった。
70年代に入って上司が代わり、政策が大幅に変更されていくことになる。
ドイツが上司たちに再三訴えていた東方外交が開始されることになったのだ。
これは、ドイツにとっても賭けだった。
プロイセンの消滅ではなく機能停止という姿をバイエルンはお前の執着のせいだろう、と言い切った。
「人の思いは何よりも強いと言われるだろう。望まれる限り国は存在し続ける。お前が望む限り、あの男は、呪いのように存在し続けるだろうよ」
呪いだろうと何であろうと、兄を消滅させずに済むのなら、なんだってやってやる、そんな気分だった。
ドイツが求めれば、プロイセンは再び動き出す。あの国には固定の民族も文化も無いと言われてきたが、確かにプロイセンという国にもプロイセンの作ってきた文化があったはずだ。ただ、それら全てがドイツへと受け継がれてプロイセンだけのものではなくなってしまっただけで。
周囲が何と言おうと、プロイセンを消させはしない。
目を開けると全面に白い布が見えた。
白い布で顔を覆われているらしいと気付き、プロイセンは布を払いのけようと藻掻き、そして、顔どころか全身を白い布で覆ってくれていることを理解した。
「何だこれ!?」
バサバサと布を剥ぎ取り、丸めて床に叩き付ける。叩き付けた拍子に埃が舞って思いっきり咽せてしまった。
「お。マジで起きた」
「本当に起きたね」
見渡せば、古びた屋敷の屋根裏部屋のような場所。
目の前にいるのはザクセンとブランデンブルグの二人。
「俺様を布で覆うなんざ、何の真似だてめぇ」
「死体か蝋人形がいるみたいで気持ち悪いんだからしょうがねぇだろ。適当な倉庫に放り込まれなかっただけありがたいと思えよ」
「死体…!? っつうか、なんだこれ。体がすっげぇガチガチなんだけど…」
「そりゃ、二十年も死体やってりゃガチガチに筋肉も強張るだろうよ」
「はあ!? 何言ってんだ、てめぇ。意味分かんねぇぞ!」
喚くプロイセンにザクセンは「あーうるせぇ!」と言って耳を塞ぐ真似をしてくれた。
「本当に起きるとはねぇ。ドイツも凄いことをやる。ここまで来ると、もう呪いか呪詛に思えてくるね。愛されてるね、本当」
「ああ!?」
全く事態が飲み込めないプロイセンにブランデンブルグが点けっぱなしになっているテレビの画面を指し示した。
「お前が眠っちまってから二十年は経ってんだよ。本当、ロシアの相手すんの疲れるわ。お前が起きたなら今後はお前がロシアの要求聞きにいけよな」
適当な説明をくれるのはザクセンで。
「二十…? ってか、あれ? 何で俺様、生きて…?」
「だから、ドイツの執念だろ?」
テレビの画面をみれば、東方外交がどうのと言っている。
「来月にさっそく西ドイツとの首脳会談があるから、プロイセンが上司に付き合っていけよな。俺はドレスデンに引きこもるぞ。もうロシアとは会いたくない!」
ロシア怖いとふざけ半分に騒ぐザクセンに苦笑を浮かべ、ブランデンブルグはプロイセンに説明を続ける。
「つい先日、西ドイツが俺たちのいる東ドイツを主権国家として認めるという態度に切り替えてきたんだよ。東方外交を開始するって宣言してきてね。公共電波には乗せなかったけど、ドイツははっきりこう言ってきたよ。かつてのプロイセン王国とザクセン王国の地を必ず取り戻すって」
プロイセンは顔を顰めたままテレビ画面を見つめ続けていた。
そして、意味を理解するにつれ、怒りが込み上げてきた。怒りに震える声が澪れ落ちる。
「あいつは、自分が何をやらかしているのか、分かっているのか!? 滅びるべき国を生き長らえさせるだと…!?」
「もちろん、承知だろうね。分かってやってるに決まってる。お前を取り返す為なら何でもする気になってるよ、あれは」
「何より、この二十年の間、東ドイツという国の化身は出現していない。俺たちが相変わらずばらばらと存在しているだけだ。これはもう、二つのドイツを認めない、ドイツは一つだと言い続けるドイツの執念しか無いんじゃね?」
プロイセンは笑うことも出来ずに、ただ、無言でテレビの画面を見つめ続けていた。
「とりあえず、来月の首脳会談には行けよ。顔くらい見せてやれよ、可愛い弟に。じゃねぇと、そろそろ暴走しそうだぜ?」
「何のつもりだ、あいつは…!」
「だから、お前への愛じゃないの?」
「お前で精神が安定するならいいじゃねぇか。せっかくなんだからもうちょっと生き残ってやれよ」
本当に面白いことが起きるなぁと愉快そうに宣う二人を余所に、プロイセンはただ西ドイツからの映像を見つめ続けていた。
三月十九日 第一回東西両ドイツ首脳会談。
現在の上司という男に付いてプロイセンは会場へと向かった。