いつかの夏花火
照れたのか肘で、どんと胸を押したが、銀八はその腕ごと押し潰すように抱き締めると高杉の髪に指を絡めた。懐かしい感触に鼻の奥がつんとなる。強くなった力に疑問を感じたのか高杉が首を傾げた。
「銀八?」
項から耳朶へと鼻を押し当てて匂いを嗅ぐ。昨日の夜、銀八の自宅に泊まっていった高杉からは僅かに汗の匂いと共に同じシャンプーの香りがする。
その事実に切なく胸が満たされる。
「んー…今日はお祭りあんね」
「ん…」
白衣の背中に高杉の腕が廻る。
しがみ付くように指をたてた。
毎年恒例の花火大会が今年は十日の金曜日の夜にあるのだ。屋台も出て花火も上がる。銀八の家で、チラシがポストに入っているのを確認してからずっと行きたかった。その事を高杉は一言も銀八に告げてはいなかった。
「浴衣、着て来いな」
「銀八」
「…なに?」
「なんか、俺に隠してること…あるんじゃねぇのか?」
鋭いんだか鈍いんだか分らない質問を直球で投げつけられて苦笑せざるを得ない。
だって、高杉。
先生はお前よりもうずっと永い時間を生きて、永い時間の中でお前の事だけを考えて、お前だけを探してきたんだ。隠しごとの一つや二つ、存在するさ。
思いの丈すべてを欲望のまま告げたなら、きっとお前は混乱するだろ?
でも。
「言うよ。いつか…その時が来たら」
誕生日。
待ち合わせ時間に遅れることなく高杉は深い藍色の浴衣を身に纏ってやってきた。少し気恥ずかしそうに下駄を鳴らす姿にいつかの彼と重ねるなという方が無理だ。勿論、銀時も草色の浴衣を身に着けていた。祭りに向かう人ごみの中に幾人かのクラスの生徒を見つけて一言二言「気をつけて楽しめよ」と教師らしい言葉を交わし送り出す。男子も女子も可愛らしい浴衣を着て、一様に足取りは軽くはしゃいでいた。
嬉しそうな横顔。
それを見ているだけで自分も少しだけ幸せな円く柔らかな何かが生まれる。
煙草を吸っていた手を止めて、急に歩みが鈍くなった高杉を呼んだ。
「高杉」
彼は、少し驚いているようだ。白衣以外の姿を見ることはあっても和服姿は初めてなのだろう。進む流れの速い道の途中で完全に足が止まってしまった。
(ああ…ぶつかってもしらねぇぞ…)
そう思って眉を寄せた矢先、高杉の肩口に茶色の髪を結った若い女がぶつかった。よろめきはしたが、逆に女が転ばないようにと腕を差し伸べる。きゃあきゃあと高杉の顔を見上げながら友達同士で喜んでいる。
「ほんとばか」
ちっと小さく舌打ちして大またに歩み寄ると高杉の腕を乱暴に取った。
「何やってんの、お前は」
すると銀八を見上げた少女は、またも顔を見合わせて奇声を発している。もう手に負えない。
「悪ィな。ほんと」
にこりと笑うと少女たちは「気にしてないですぅ」と返事をする。その答えを待たずに銀八は呆然としている高杉の腕を取って、さっさと踵を返した。
「ったく、お前は馬鹿ですか? アホですか? 道のど真ん中で止まるかね普通」
「う、るせぇな。ちょっとぼんやりしてただけだろっ?」
「そのぼんやりでぶつかったのが、さっきみたいな顔は可愛いけど馬鹿な子ばっかりとは限らねぇんだよ?」
もし、性質の悪い輩で、高杉の体で責任取れとか言われたらどうすんの。と大真面目に告げると「ありえねぇ!」と笑われた。
「大体、銀八は心配症なんだよ。家出たらメールしろだの、どこいるか連絡しろだの。俺ぁ小学生か」
右手を握ったまま歩き続ける銀八に引っ張られ、苦情を申し立てるとぴたりと足が止まった。それに気づかず高杉は足を繰り出していたせいで、広い背中に鼻の頭を容赦なくぶつけてしまった。
「痛…っ」
「……」
「ちょ、先生…痛ェじゃねぇかよ!」
握られている手とは反対側の手で鼻の頭を庇うように覆うと、銀八は徐に振り返った。その余りに真摯な顔に戸惑ったのは高杉だ。
だが、これだけは言っておかねば。
「…あのね、高杉。俺を選ぶってことは、そういうことなんだよ」
「……」
「俺の手を取って、俺の傍ら歩くってことはそういうこと。悪いけど、お前がガキだからってその辺譲るつもりもねぇし、俺だってずっと待ってたんだ。離せるわけねぇだろ」
ぐっと顔を近づけられて、怯んだ高杉の唇に一瞬だけ唇を落とす。
「!」
ちなみにここは公道で祭りの会場へと向かう人間でごった返している。
「ちょ……」
「花火、見るの? 見ねぇの?」
「…見る」
からころ、と下駄が鳴る。
怖いくらい、足音が似ている。
綿菓子だ、りんご飴だと甘いもの全般は銀八が平らげ、高杉は一口だけ貰うに留まった。幾ら祭りのテンションだと言えどもこの甘さを丸ごと食べることは困難だ。
あっちこっちふらふらと歩き回る高杉の背中を見失わないように、追いかけながら銀八は両の眸を細めた。
残酷なことを、まだたった十七歳の子どもに求めている。
いや、今日…十八歳になった。十八と言えば、あの頃は先生を失い、戦争へとその身を投げていた頃だ。
祭囃子の音、甘い匂い。喧騒。穏やかな、平和。
生きるか、死ぬか…必死だった。
国を侵略者から守るのだと、仲間を守るのだと武器を手に握り叫んでいた。
(思い出して、欲しいわけじゃない)
このままでいい。
何も知らないまま、傷つく事もなく、憎しむこともなくただ笑ってくれていれば。
「……」
ふいに、提灯の明かりが絞られて周囲が暗くなった。はっと目を上げて高杉の姿を探す。
「銀八!」
人ごみの向こう、高杉がこちらに駆けてくるのが見える。
「高杉」
銀八も人を避けながら歩き出し、腕を伸ばすと高杉の指が触れた。迷わずぎゅうと握り込む。この手の中に戻ってきた体温に安堵して溜息を漏らすと、容赦ない怒鳴り声に我に返った。
「てめぇの方が迷子になってんじゃねぇかよっ」
ガン、と足を蹴られる。
え、俺が迷子て事になってんの?
ちょ…びっくりなんですけど…。
目を丸くしていると、ひゅっと細い音がした。僅かに遅れてどんと下腹に響く低音に急いで顔を上げると目の前の高杉も銀八の襟を両手で掴んだまま夜空に咲いた大輪の花を見詰めていた。
「……」
周囲からもうっとりとした歓声が零れた。
「先生、見たか?」
先ほどの苛つきも忘れて子どものように喜ぶ、高杉の手を引いて銀八はその場を離れた。
「ちょ、どこ行くんだよ」
「……」
「先生、…銀八っ」
花火が始まって、完全に周囲の足が止まっている隙に、河原の裏手にある神社を目指す。名残惜しそうに振り返りながら進む高杉を強引に連れて、十分ほど歩いた。
すると、そこは祭り会場の河原からそこまで離れているわけでもないのに、すっかりと人の気配が消え、眼下に提灯の明かりがゆらゆらと揺れていいるのが見える。
「ここ…」
手を離すと高杉は物珍しそうに、きょろきょろと周囲を窺った。次の瞬間だ。どん、とまた大きな音がして花が咲く。去年の夏のボランティアというクラスのイベント事に引っ張り出されて、この神社を見つけた。ここならきっと花火がよく見えるだろうと思ったのだ。
「すげぇ近いだろ?仕掛けはちょっと遠いけど見えないわけじゃねぇし…穴場」
お前に見せたかった。