人にやさしく
なぞった後がひどく熱い。その作用は山本が魔法の効力を思いこむのに充分なもので、山本は少し上にある彼の瞳を熱っぽく見上げた。
一つ一つの山本の動きを面白そうに眺め、そして撫で付けるように笑う。その笑いにはからかいの斜に構えた意も含まれていただろうが、それは怒りを感じるようなものではなく、微かになびく黒色一色の睫を眺めていた。
薄く笑うと、それはあの山本が愛してやまない少年の表情に更に近づいていった。柔らかそうな頬が少しだけ緩み、劇薬の毒々しさは消える。
瞳が揺れ動いたわけを尋ねようとしたところで、一足早く彼の目的の階にエレベーターは達し、ランプを見上げていた隙に大人の雲雀は去っていってしまった。
その後姿が、凛としながらもすこし陰りを感じた。特に先ほどまで雄弁さを誇っていた右手がその儚さをすべて詰め込んでいて、握ってやりたいとぼんやりと考えた。
そのときは気のせいだと思い込んで修行へと急いだことにも後悔することになる。
その人が、何日かあとに自分たちの身代わりになったと知って、更に、刃を向けられた自分の窮地を救ってくれたことを聴いたのは、ずっと後のことだった。
礼を言うこともなく、触れることもできず、魔法の真意を尋ねることも出来ず、それっきりになってしまった。
あの人も優しくされたかったから、俺にあんな魔法を掛けたのかな。更にそう思いついたのは、自分たちの時代に帰ってきてからの、ずっと後のことだった。
○
閉じこもる雲雀に何回か接触を試みた後、気づいたことがある。
雲雀の行動範囲が前より狭く限られたものになったこと、いつもなら彼が買い占めているはずの毎日限定5個の購買のフルーツサンドが、最近一般生徒の手に回るようになったこと、雲雀の拒絶は、山本だけに留まらずすべての世界に対する拒絶であること、これらがそうだ。
あれだけ並盛の匂いを愛していた雲雀が、季節の変わり目にここまでおとなしく籠もっていること事態が異常だ。
鉄扉をいつも固く閉ざしている鍵は外されていた。
どうせ、どこにいても雲雀は同じポーズで、バックグラウンドなど気にせずあのヘッドフォンを嵌めているだけだ。断線したい、という乱暴な苛立ちは沸いてこないが、シャツの間をすり抜ける風が引き起こす、実際に肌に感じる寒さと、心地の薄ら寒さが更に増幅されて山本を苛む。
屋上に訪れたのは、仲間たち皆で未来の世界に懐かしさを求めたあのとき以来だ。
コンクリートは、相変わらず乾いていて、十年後見たものとほとんど変わらない。少し歪んだフェンスの形も、柱の剥げたペンキも、体育館の匂いも、グラウンドの土埃も、安堵するほど変わらない世界が、余計に際だたせているのだろう。
自分たちが見た、選択を間違った世界は、今の並盛とまったく同じ形を皮肉にも取っていた。
事実と現実だけの潤いのない世界は優しさの含有量が極端に低く、あがいて引きずりながら帰ってきたあとも、今でも後味の悪さを思い返す。たくさんの破壊とそれに伴う怒りと連鎖する悲しみは、あの世界を見た誰しもの身体をうがって、今もそれぞれの胸に焼き付いている。
獄寺のタバコの本数は少し減り、ハルの私服の装いには少しくらいトーンが増えた。
終わりの頃には希望に対してではなく、現状に対しての諦めを色濃くしていた綱吉は、最近ようやく京子と時折あの時のことを思い返しては、二人きりの言葉をぽつりぽつりと交わしているらしい。
皆あがいて引っ掻いたあとの爪あとを、苦く思って自分の右手を眺める。
山本も雲雀も、まだその隙間を修復している途中で、優しくされたい、なんて誰しもが願うことだ。それは弱くも何ともないが、叫びは時折虚しさを持って空だけを打つ。
上履きで少しずつ寝そべる雲雀との距離を縮めながら、優しくする仕草を頭の中で形巣食ってみるが、どれもやはりこの場にそぐわない。
例えば、頭を優しくなでる?手を取り合って一緒に眠る?暗い妄想を、夢と一緒くたにするために肌に舌を這わせる?
単純な肉体の接触は山本の常套手段で、これで大抵の感情のかさつきは慰められてきた。それまで何も疑問に思わずに、ただただ、行き詰まりを性欲に任せてぶつけていれば、その一瞬は燃え上がり熱を放ち、鬱屈を取り去ってくれるからだ。
当然のように、憂鬱の波に晒されるよりは、多少の羞恥に耐えても、精神的な痛みに選択肢の少ない山本と雲雀は、だいたいはその手段に陥って過ごしていた。
昼間に食べたフルーツサンドの生クリームが胃に重く、また喉が渇いた。まだ自分の身体に起こる小さな現象に、切ない、寂しい、という感情をすり合わせることが上手くいかず、この喉の渇きにただ耐えていた。
ここ数日かで何度試みただろう。唾液を飲み下して、寝そべり白いコードを垂らしている雲雀の名前を呼んだ。
「ヒバリ」
呼んでも、少しヘッドフォンをずらし山本の気配を感じ取るだけでそれ以上の反応はない。またあの拘束具のようなヘッドフォンは雲雀を外そうとせず、いつもより無気力で緩慢としている。コンクリートに棒立ちである山本を一度見やっただけで、だるそうに眠りを続けようとしていた。またあの漏れたビートを響かせて。
息が詰まって、涙の気配がやってきた。寒さに強張ってしまったのか、筋肉が軋んでいく。
もしあの魔法がなければ山本自身もこうして、閉塞に安堵を見出して、慣れない音楽に耳を傾けて閉じこもっていたかもしれない。もっとひどい自己満足の嘆きに囚われた姿を晒していたかもしれない。
でも、雲雀の世界が閉塞しているのなら、俺はそれをぶち壊す。色がないなら、オレンジだろうと紫だろうと好きな色に塗ってやる。
だからヒバリ、ヒバリ、一人で泣いたりなんかするな。
雲雀のダークグレーの瞳は、全く涙に濡れては居ないが、1人音楽に入り込むことが、声を上げることが苦手な、涙の雫を落としきれない雲雀が唯一とっている慟哭の手段のように思える。
自分の悲しみと外部からの音を体内で衝突させ、すべてを紛らわせている雲雀にとって、外界からの統一されない音をもたらしてくる山本は、ただのノイズかも知れない。
耳に優しい旋律を奏でることも、あの枯葉も取り払われた木々にすぐに花をつけることも、空を飛ぶことも出来ないから、今自分にできる精一杯のことを、ただ叫ぶだけだ。
人に優しくされたいなら、自分から何か起こせよ。
あの人からもらった小さな魔法は、未来で唯一得た優しさだった。あんな強くて何にも倒れないような人間が、くれた優しさの魔法をもう一度唱えてみた。
深呼吸一つで足りるだろうか。不安も少しあったが、めいっぱい腹に息を吸い込んで、声帯を開く。掛けられた魔法を信じて、目一杯に空に大声を投げつけた。
「みーーーどりたなーびくーーーーーっつなみもぉーりーーのーーーーお!!」
歌と言うよりは絶叫に近い。普段なら他人の歌う校歌に合わせ、メロディをさえずるはずのヒバードの丸い目が、奇異を見るように山本に張り付いていた。
さすがに雲雀も音楽の呪縛から少し拘束を解かれたようで、山本の続いていく奇行を、唇を薄く開けて見守っている。