人にやさしく
こうなってしまっては、後には引けない。あのとき痛めていた肋骨も、もう完全に修復されたのだから今肺を目一杯に膨らませようとどうにもならない。
大丈夫、俺にはまだ魔法がかかっている。人に優しくできる魔法と、どこまでも走っていける魔法が。それだけが山本を奮い立たせ、まだ声帯を震えさせる。
ワンコーラスを歌いきってもまだ足りず、張り上げた声が二番を乱暴になぞっていく。音程というルートは気にせず、ただ爆走していくだけだ。喉の奥に時々唾液が入り込みそうになるほど、見境なく、ただ吼えて、歌っていく。
きっとそれは雲雀が耳に流し込んでいるような、整理された音のつまりではないだろう。どたどたと無様な足音を立てて走りぬける、歌ではなくもはや単なる絶叫である。
「ああーーーーーーっともにあーーーーーーゆもぉーーーー!なーあーーみーーーもおおーーーーりちゅうーーーーー!」
ビッドレートもあんていしないめちゃくちゃなフルコーラスがそこでようやく終わる。
急に酸素を燃焼させたせいか、頭の中に巡る色が薄く白んできていた。わんわんと、まだ脳内では自分の張り上げた声が回っている。膝から少し力が抜けるが、無様な姿は見せないようにと、右足の爪先にいつもより多くの力を掛ける。
一方の、山本が何とかして反応を得ようとした雲雀は顔半分を掌に納め、不規則な息をもらしていた。明らかにこの世界からの刺激を受け取っている姿だが、酸素が欠乏している山本には即座にこの様子が何に当たるか判断がつかなかった。
最初は行き過ぎた涙かと思ったら、それは笑いだと気付くのに暫しの時間を要した。は、と息を収めようとしても、上手くいかないらしく、咳き込んでようやく息を乱暴に整えた。
「君は…そんなに歌が…いや、君にも苦手なものがあるんだね」
小さな唇から久々に漏れた声に安心よりも、照れが一瞬で顔の表面に集まってきた。
「だって俺、他に全部歌える歌なんかねーもん」
暴走の後の恥ずかしさは雲雀の笑い声に少し緩和される。
回路がショートを起こしたように、視界がぱちぱちと光る。そんな目のままで眺めるものだから、大好きな人が笑う姿が余計に山本の中できらめいていく。
背を曲げて息を吐く雲雀の仕草は、閉じこもっていたナーバスさとは違い、少年の活気が指先にまでこもっている。重ねられた彼の両手に、あの白く美しい人差し指を思い返した。
「君は本当にバカだね、もう全部どうでもよくなったよ」
無邪気な笑いはやがて不適な含み笑いへと変わり、山本が一番見慣れた表情になった。その顔は、山本に優しくなる魔法をかけた、あの男にも通じる色があって、驚愕と一緒に、色に当てられて胸がどくん、と鳴った。
山本の心の内も知らず、すぐに少年はまた珍しく跳ねた笑い声を転がす。
肩に止まったヒバードも、山本の暴挙にしばらくは驚きのあまりまだ暫し呆けていたが、飼い主の弾んだ笑い声にようやく平静を取り戻したらしい。先ほどの山本とははるかに違う正確さで、また校歌を歌い上げる。
そこで山本の戸惑いと雲雀のほのかな笑いが始めて重なり、視線も久々に合わさった。
濃い灰色の瞳は、嘘みたいな真っ直ぐさで山本の胸を痛みを諸ともせず射抜く。
優しさも呪いも、すべて自分の元に返ってくる。あの魔法使いが言ったとおりだ。
「喉が渇いた」
あのいかつい形のヘッドフォンは、雲雀の戒めを解いて、肩にかけられる。山本は座った雲雀から伸ばされた右手をおずおずと握り、久しぶりに情欲の混ざらない接触が二人に生まれてそれは少しくすぐったくて、暖かくて、何故か山本にとっては涙を喚起するものであった。
学ランがかけられた肩に、あの凛とした強さと、陰りを見てしまったからだろうか。それとも、単に久々の接触に過敏になっているだけだろうか。
二人を癒す温かな部屋に辿り着くまで、雲雀はこの接触を許してくれたようで、やっと気づいたのか山本の袖からだらしなく伸びている紺色の毛糸の解れを指摘する。
「行儀が悪いよ」
窘めるその言葉さえ、今は山本の笑顔を深めるスイッチとなる。
冬の風は、セーター姿のままの山本の筋肉をこわばらせていたが、冬の寒さが悪くはないと思う。
何日間も掛けて時さえも越えて、ようやく繋いだ手は、魔力でも宿っているかのようにしっくりと温度が分けられる。
山本は肋骨の奥がじんと熱くなり、雲雀にうざったがられ振り解かれるまではしばらく、そのままにしておいた。
●
ふう、と溜め息をつくと、向かいのソファに座る綱吉が、明るい色の前髪を揺らした。
「怒らないんですね」
「別に、君に苛ついても」
自分の預かり知らぬところで起きた、別の人間が起こしたことにいちいち自分の胸を痛ませるほど、容量は空いていない。
雲雀からの追い立てに渋々口を開いて綱吉が語ったのは、未来の自分とやらが大層あの男を大事にしていていたことだ。
にわかに信じられない。
只でさえ、目覚めの悪い夢を現実だと刷り込まれて飼い慣らされざるを得なかったあの男を見ているのだ。自分があの時代に飛ばされてからの、山本のやけにとろけた目線にかみ合わなさを感じ不審に思ったのはすぐのことであったが、次々に雲雀の前に無節操に貼り付けられた事態に、解明は遅くなってしまった。
体越しに他の物を触られているような、味わったことがない妙な触覚である。
「本当に助けてくれたんです、それも三度も」
苛立ちを孕んだ溜め息をつくと、綱吉の方が恐れの為か小さく跳ねた。この場で彼を恐れさせて言葉をなくしてしまっても、一つも得にはならないから、利き手をひらひらと振って暴力がここに篭っていないことを示す。
綱吉は落ち着かなさそうに又ソファに座りなおして、それから遠慮がちに、山本と雲雀と同じ名前の誰かとの出来事を語り始める。
あの男が傾倒するのも無理はない。あんな世界での優しさなんて、すぐ信じてしまうだろう。吊橋効果?それとも刷り込み?そんな名前を当てはめても、現状が何か変わるわけではなく、自分の一瞬の時間の隙にあの男にねっとりと張り付いた、誰かの影が消えない。
「でもそういうのは、きっと呪いだね」
ひっそりと嫌悪を色濃く混ぜ、呟いた。
誰かを見越しての言葉も接触も、全てが全て、気持ちが悪く、あの妙にしなだれた手が自分を掠り誰かに触れたがっているのも確かなことだった。
どこか陶酔して、焦点も合わなく、歯車が一つずれたような軋みを感じてしまう。
吐き捨てるように言うと、綱吉は苦笑いを一度浮かべ雲雀が差し出したカフェオレにようやく口を付ける。
ともし火は暖かくとも、それが自分以外の物に向っているのなら、受け入れるわけにはいかない。
傷にならない程度に、苛立ちを込め軽くソファの革を引っ掻いた。微かな衝撃であるのに指先が少し痛む。
「やさしさって自分が優しくされたいからそうするのにね。みんなそんなことは知っているよ。」
相槌を求めてはいなかったのに、やけに神妙な顔で綱吉がそうですね、と同意の言葉を口にした。だが、自分の視界に映る髪の色を見て、頷きを返して欲しいのは別の人間だと逆に思い知ってしまう。