カナリア
「それに大将がそんなに腰が軽いと士気に関わるでござるよ、晋助。それとも拙者は何か間違えたことを言ったか?」
「……」
どれもこれも事実で高杉は咄嗟に返す言葉を見失う。論戦は得意だったがこの男が相手だとなぜか分が悪い。
そう思って喉を詰まらせているとまた肺がきしりと軋んで咳が出た。ごほごほと乾いたものだが何となく鉄の苦い味がして咄嗟に万斉のコートの襟元を掴み堪える。
「晋助」
「だいじょう、ぶだ…少し咽ただけ、だ。構うな」
直ぐに離れた冷えた指を万斉は握り込み何かを言おうと口を開きかけたが高杉はそれを赦さず手を払った。
「構うな、と言った筈だ」
「とにかく、宿に。どうせ晋助のことだから紅桜の話はせずに帰ったのだろうが明日に行くならば些か話を詰めねばならぬ」
「…何か動きでもあったか」
「否、交渉の場に直接出向くにはもうちょっとかかるでござろうな」
万斉には今、大きな仕事を一つ任せている。
宇宙海賊、春雨との交渉役を万斉に一任しているのだ。とにかく高杉は幕府転覆を狙うにあたって大きなバックホーンが欲しいと常々思っている。強力な後ろ盾が欲しい。たかがこの身一つでやれることなど決まっているのだ。だからこそ、春雨の力が欲しい。たとえ昔、想像を絶するような戦いを繰り返してきた天人でさえも利用できるものは利用する。悪だろうが善だろうが関係ない。そんなもの立っている場所によって変化するのだ。師を殺し、仲間を殺し、そして己を殺した幕府を完膚なきまでに潰す。そのためならば天人だろうが何だろうが利用する。狡猾に生きねば成せることも成せなくなる。
そうか、と一つ頷いて高杉は息を吐いた。
「少し晋助の耳にも入れておきたいこともござる」
黙り込んだ高杉の手をとり、その薄っぺらい背中に掌を添えると万斉は高杉を促した。
「…」
その態度に些か頭にきたが、余りにさり気なさ過ぎて振り払うタイミングを完全に逃してしまったことに気づいた。
不思議だ、この強引さはあの男に少し似ている気がする。瞼の裏に銀色の光が差した気がして自嘲の笑みが浮かぶ。
(俺ァどこまでめでたく出来てる…)
熱っぽい体が疎ましくてならない。
歩みは鈍く指先まで重い気がした。確かに幼い頃から身体が丈夫な方ではなかったがそれでも昔はこうではなかった。徐々に思うように動かなくなる。最近はその現れ方が顕著だった。誰にも言ってはいないがこうして自分の傍らを歩くこの男には見抜かれているのだろう。だからこそ万斉がここまで高杉を追ってきたのだ。それを思うと悔しくてならなかった。
一人で生きていけると、もう誰も何もいらないと全てを喪い絶望した瞬間に決めた筈なのに…その心が揺さぶられていた。
どこからこの金を捻出したのか、と問えば「拙者のポケットマネーだ」と平然と言い切る顔に万斉が淹れた熱い茶をぶっかけたくなったが高杉は浴衣に着替えたばかりなのでやめておいた。
あの後、さっさと大通りに出た万斉は車を掴まえ高杉を押し込め駅の近くの宿の名を口にした。
「木を隠すには山の中に突っ込むのが一番でござる」とこれまた簡単に言い切った万斉に(俺は木か)と少々、呆れて高杉は勝手にしろとそっぽを向いて瞼を閉じた。
車の振動は苦手だ。万斉の肩に無意識に凭れてやり過すうちに本当に眠ってしまったのか、次に目を覚ました時は宿のソファの上だった。脱力した体に毛布を掛けられぼんやりと目を瞬いている高杉の傍らにはやはり万斉の姿があった。
視界がまだ半分ほど靄が掛かっている気がする。重たそうに腕を持ち上げて額へと翳す。
「目が覚めたか、晋助」
「…今、何時だ」
唇がカラカラに乾いていた。開くと、ぱり、と音がしたので舌で舐めて潤そうとしたが肝心の舌も乾いていて少しひりひりする。眉を寄せていると万斉がコップに白湯を持って近づき、膝をついた。
「深夜の零時を廻ったところでござる」
「…そうか」
力の入らない体に無理矢理力を込めて、上半身を起こすと万斉がまた背中に手を添えて起こすのを手伝った。うぜぇと払う元気もない。身を任せて起き上がると漸くコップに口をつけて喉を潤した。その後、風呂に入りたいと我侭を言った高杉に頷き風呂の仕度をして入浴させ浴衣に着替えさせたのも万斉だ。彼にこんな芸当があるとは知らなかったがあれこれ言う気も起きない。それほどに疲弊していた。
頭が痛い。昼間はそんなことなかったのにと歯噛みしていると万斉は今日はもう休むかと訊いて来る。
「いや、話があるんだろう。今きく」
浴衣に着替えて漸く人心地についた高杉は茶の代わりに酒を探し出して呑み始める。これには万斉が呆れた。だが止めて聞くような男なら万斉は初めから首に縄をつけてでも晋助を縛り付けておくだろう。だがそうしないのは万斉自身、晋助の歩む先を見て見たいからだ。
「…了解した」
頷いた万斉はそれでも高杉の肩に羽織をかけて正面に座した。暫らく、春雨との交渉の現状を語る。もう一押しで落ちそうなものだが、何か決定打にかけることを伝えると高杉は顎に手を触れて黙って考え込んだ。更に万斉は大事なことを一つ付け加える。
「似蔵が戻ってきているでござるよ」
その名にぴくりと高杉の顎が揺れた。なぜそこで高杉が動揺したのか万斉には理解できなかったがあえて黙殺して高杉の返答を待つ。
「そうか…類は友を呼ぶって言うが…紅桜は似蔵を呼んだかィ」
備え付けられている煙草盆を身を乗り出して引き寄せて置いてある煙管に葉を詰める。
「これで役者が揃ったじゃねぇか」
「だがまだ村田は了承しておらぬでござろう?」
それどころかこの取引を持ち出してもいない。高杉は会いに出向いただけなのだから。
「村田鉄也はこの話、のる」
「…妙に言い切るでござるな」
「あいつも俺と同じだ」
「…?」
膝を立て、火をつけた煙管を噴かす高杉は睫毛を伏せたままどこを見ているのか万斉には分からない。しかしふいに立ち上がって畳の上を素足で歩き大きな窓の傍らへと向かった。
「一つの道しか見えちゃいねェ。目的のためなら手段も選ばない。そんな目ェしてやがった」
僅かに首を巡らせると、高杉はただ窓の外に拡がっている暗い闇を見つめている。万斉は高杉がどんな顔をしているのか些か気になって目を凝らしたがはっきりとは分からない。それでも何とか肩越しに彼の表情は窓ガラスに映った影から見えたが推し量ることは出来なかった。
「万斉、明日、村田に話を持ちかける。紅桜に関して事実確認をした上で奴のいいように融通してやりな」
「承知した。だが晋助、明日は拙者も共に行くでござる」
どうせ否、と言っても彼は勝手についてくるだろう。
「勝手にしろ」
もう休む、と言って高杉は隣室に向かう。そこには高杉の今夜の閨が用意されてあった。
「晋助」
高杉の背中が襖の奥へと消える前、万斉は一応の許可をと考え声をかけた。
「今夜は拙者もここで休むでござるよ」
「……」
僅かに非難めいた視線を向けた高杉に万斉は、逆に呆れたように肩を竦めてみせた。
「この間のように晋助の部屋を訪れるともぬけの殻だったとかいう事態はもう御免被る」