カナリア
突如、放浪したくなる高杉の悪癖を遠まわしに非難したが高杉はそれには答えぬまま、襖を閉めた。
その明け方、高杉は夢をみた。
久しぶりに何かが創造される現場を肌で感じたせいか、三郎という男の夢だった。いつものように三郎は作業場で一人大筒の整備をしていて高杉はその背後で彼の背を見ながら次の作戦を考える。それがあの頃の常だった。
その頃はもう高杉の傍には桂も銀時もいない。
負け戦と理解しながら諦められぬ高杉はどこか意地になっていたのかもしれない。何よりも自分だけは置いて逝くまいと決めていた。そして死地も戦場であると固く心に誓っていたのだ。
一人で立ち、一人で成していくしかないと覚悟を決めていたが高杉には鬼兵隊というかけがえのない同士であり、仲間であり、戦友が在った。その事実がどれほど孤独の只中にいた高杉を勇気づけていたか、恐らく誰も知らないだろう。
油の匂い。
三郎の声はいつも優しさに満ち満ちていた。
親父の話ばかりで、つまらねぇだろ?すみません、面白みのない奴で…と苦笑する三郎に頭を振る。
俺は戦争に参加すると決めたとき家族を全部捨ててきた。愛してきたもの全部。そう言うと三郎は目を丸くした。
家族との縁を切るという離別の置手紙を遺し高杉は戦場に出た。もう帰ってくるつもりがなかったからだ。侍として死ねたら父上、母上の胸の中でよくやったと、そっと語りかけてください。それが私に対する最高の褒美であり親孝行に代えさせて下さいと書き残し戦場で死するつもりだった。今もこうして生きながらえているが、戦況は過酷で明日の食事も武器もままならない。幕府は掌を返し天人迎合を打ち立て高杉は賊軍となった。縁を切っておいて良かったと今更に思う。自分のしでかした事が、幾ら己の魂と誇りと仲間と、そして国を守るべきことであってもこのままでは家族に迷惑をかけていただろう。
―壮大な親子喧嘩だが…三郎…てめェは親父の下になおさら帰らなきゃな、
この辺りの地形と睨みあいながら漏らした高杉の言葉に三郎は手を止め、こう言った。
―俺はあんたが歩き続ける限り、どこにだって行く…一緒に行くよ。止まりゃあ…そうだな、あんたの細っこい肩くらいなら凭れて休んだって俺は全然、疲れないから…やっぱり一緒に止まるぜ、総督
思考が固まった。
―でもそれは俺だけじゃねぇ、ここに残った皆はあんたが好きで…堪らなく好きで助けになりたくてあんたと一緒に戦いたくて残った奴らばかりじゃねぇか…だから帰れなんて言わないで下さいよ、ね?
そう言って笑う三郎を呆然と見ていた。
ただ立ち竦んで言葉すらまともに返せない。
人の言葉に打たれて乾いてしまった目から涙が零れたのは、それが始めてだ。
目を逸らして咄嗟に俯いたが、見えてしまっていただろう。三郎は小さく笑ってまたからくりを弄りはじめた。
どれほど、愛したかしれない。
出来ることなら、鬼兵隊を解散しあの爛れた戦場から逃がしてやりたかった。
それなのに…。
ふと気づくと高杉は川の湿った特有の風を感じていた。
ああ、この感覚は…と眉を寄せる。
見ては駄目だとそう思うのに、自然と足は川原へと向きこんなにたくさんの見物人がいるというのにはっきりとそれは見て取れた。
乱雑に並んだ腐りかけの首が晒されている。戦場を共に駆けた男たちだ。この間まで、自分の傍らに立っていた。総督、と呼びかけていた。なぜかその中に松陽の首まであって、皆、一様に高杉の方を睨むように目を見開いていたのだ。
そして耳を塞ぎたくなるような慟哭が聞こえた。
思わず振り返ると川原で号泣しているのは随分と幼い高杉だった。恐らく松陽が死んだ頃の自分だろうか。泣き崩れ発狂したのではないかと危ぶむような泣き方をしている自分を抱いているのは返り血で白い陣羽織を穢している銀時だった。否、あれは銀時ではなく白い夜叉の方だ。白夜叉がまだ戦場に立ったことのない幼い高杉を抱き締め慰めていた。
幼い自分はただ、あの広い背にしがみ付き泣きじゃくっていた。
「…めろ…」
もうやめてくれ。
この女々しさは何だ。銀時に慰めて欲しかったというのか、それともその腰に差してある彼の刀で貫かれることを望んでいるというのか。
甘んじて罪を受け入れることもせず…。
俺が殺したも同然だ…俺が…。
もしもあの時、戦をやめて刀を置いて膝と魂を折っていたらお前たちは死なずに済んだのに。国のために血反吐を吐きながら戦った男たちの末路がこんな惨い事態に陥ったのは誰のせいだ。
ああ、共に逝けたなら…どれほど良かっただろう。
高杉の体が、魂が音を立てて崩れていく。咄嗟に手を伸ばした。
―総督、総督…あんたの魂は死んだって俺たちが守るから、だから生きて成すべきことを成して…。
油塗れの手が、無骨の指が、血塗れの掌が高杉の傷付いた右目を撫でていく。
(ああ、三郎…、俊輔…義助…みんな…)
「…すけ、晋助!」
耳元で名前を強く呼ばれて、高杉ははっと目を見開いた。
「…さ、ぶ…ろ…っ」
咄嗟にここがどこだか判別できない。薄暗い室内に半ばパニックに陥るように体を起こして身を捩る。
「う、あ…あっ」
「晋助、落ち着くでござるよ」
「はな、せ…離せ、やめろっ」
「晋助!」
「ころす、な…あいつらを、殺すな…かわりに俺を幾らでも殺せばいい!」
力ないと思っていた高杉の抵抗は強く、万斉は鋭い痛みを頬に感じた。高杉が爪を立てたのだ。まるで雌猫のようだと思いながら高杉の狼狽ぶりは尋常ではない。小さく舌打ちをすると手首を拘束して頭を抱え込み咄嗟に強く自分の胸に抑えつける。
「晋助、拙者が分からぬか」
「はな、せっ」
「晋助」
何度も耳元で名を呼ぶ。その度に高杉は震えながらも呼吸と鼓動は落ち着いていった。やがて抵抗は止み万斉の背をきつく掴んでいた手がするりと落ちて、疲れたようにぐったりと弛緩した体が万斉に寄りかかる。
途端に肺が軋んで咳が出た。
容赦なく気管を痛めつけせり上がる乾いた咳に高杉は蹲るようにして耐えた。
「晋助…」
何度も痩せてしまった背を擦る。
「万斉、か…」
苦しげな呼吸の下で僅かに安堵したような溜息が漏らされる。
「熱のせいで夢でもみたでござるか」
喉が渇いていた。体中の全ての水分が搾り取られたような感覚に気を抜けば死んでしまいそうだ。
「水…」
掠れた声で請えば頷いた万斉は高杉を片手に抱えたまま枕元の水差しからグラスに冷水を注いで唇に押し付けるが今の高杉に自ら口に含んで飲み込む気力はなく唇を濡らすに止まった。顎に零れた水滴を指先で拭い虚ろな高杉の表情を見下ろした。
「……」
一瞬、考えるように動きを止めた万斉は高杉の耳元にもう一度唇を寄せた。
「晋助、許せ」
何を、と左目を万斉に向けると彼は自ら水を口に含み高杉の熱っぽい顎を捉えると上向かせる。高杉が名を呼ぼうと唇を微かに開いた隙を狙って万斉は顔を近づけ唇で唇を覆った。
「ん…っ」
驚いたがあっという間に僅かに口腔の温度で温められた水が高杉の口内に流れ込む。咽そうになるのを堪えて必死で飲み込むと万斉の唇は離れ、慌てて酸素を吸った。しかし直ぐにまた湿った感触が唇に触れた。