カナリア
発熱が続き、全身の倦怠感に止まない咳、そして…。
この症状はどこかの医学書で読んだことがある。まさかと嫌な予感が胸を掠めた。
「晋助さま、晋助さま!」
どんどんと扉を強く叩く音がして暫らく呆然としていた高杉は我に返った。
「どうしたッスか、晋助さま!」
よろめいた時に大きな物音をどうやら立てていたらしい。また子が心配して飛んできたようだ。扉に鍵をかけておいて良かった。腕に力を込めて洗面台に手をつき慌てて立ち上がると蛇口を捻って水を出した。手を洗おうとして思わず鏡に写る自分の顔色の酷さに愕然した。口元は赤に汚れ肌の白さと相まって目に痛い。頬は痩せて捨てられた子どものような顔をしていた。
「晋助さま、返事して下さいッス!」
思わず手を伸ばして鏡の中の自分に触れる。硬質な感触が指に伝わり眉を顰めた。己の顔に爪を立てる。気分が悪かった。松陽を喪ったときと同じ顔をしている。同じ顔をした高杉晋助がこちらを見ていた。
「……」
その目と目が合った瞬間、意識が反転していた。
「晋助さまァ!」
「どうしたでござるか」
「あ、万斉…晋助さまが出てこないッスよ。中で物音がして…倒れているかもしれない」
どうやらまた子の声に万斉も気づいたらしい。幾度かドアノブを回してがちゃがちゃと音を立てていたが開かないと分かると直ぐに止んだ。
「晋助、開けるでござるよ?」
そして高杉の返事を待たず、万斉が力づくで扉を蹴り開けた。
「!」
「晋助さま…!」
中の様子を見て万斉の足が止まる。咄嗟に背でまた子から膝をついている晋助を隠し、落ちている羽織を掴むと頭から被せて抱き上げた。
「ちょ、万斉、何スか!晋助さまは?」
なるべくまた子の視線から隠すように背を向けて歩き狭い洗面所を出るとまた子は不満げに万斉のコートの端を掴んで足を止めさせようとした。
「どうしたんスか、晋助さまは…っ」
覗き込んで息を止める。万斉の腕の中で高杉は息絶えたかのような蒼白な顔に、口元には鮮やかな血の痕があったからだ。思わず足を止めて口元を震える手で覆ったまた子は黙って歩き出す万斉の背を慌てて追いかけた。
「晋助さまぁ!」
「騒ぐのは拙いでござるよ、また子殿」
人気のない廊下を大股で歩きながら寝室を目指し、意識があるのかないのか…瞼を閉じている高杉の顔を見下ろす。
「何なんスか…その血…」
「恐らくよろけて転んだ時にでも唇を噛み切ったんでござろう。心配ないでござる」
「でもそんな感じの血の色じゃ…」
「また子殿、すまぬが似蔵がそろそろ来る頃合でござるが晋助が逢えなくなったと伝えては貰えぬか」
「そりゃいいッスけど…でも晋助さま…」
「伝えたらまた戻ってくればいいでござる」
「……」
万斉が、高杉から自分を遠ざけたいということだけは伝わった。万斉の歩みに合わせて力なく揺れる高杉の素足にまで僅かに血液が付着しているのを見て取ってぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
「似蔵に、伝えればいいんスね」
「すまぬ」
「謝るな、気色悪い」
それだけ言うと踵を返して走り出した。
そうしなければ、無様な泣き顔を晋助にではなく万斉に見られてしまう。
(晋助さま…あたし何も出来ないッスか…?)
悔しくて悲しくて、晋助が心配で心配でどうにかなりそうだった。
万斉は高杉の寝室に戻るとゆっくりと布団に下した。直ぐに湯と手ぬぐいの仕度をしに一旦部屋を出て戻ると高杉の目が薄っすらと開いている。慌てて駆け寄った万斉に視線をやって緩く笑った。
「前言撤回だなァ」
「何がでござるか」
「俺の神はまだ生きているらしい」
傍らに膝をつき万斉は高杉の背を支えて起こすと自分の胸に凭れさせ、背後から抱き締めるような形をとった。それに対して高杉は文句を言うわけでもなく成すがまま黙っている。湯につけて絞った手ぬぐいで高杉の口元を拭うと猫のように目を細める。
「死神と、もう一匹は神じゃねェな…鬼だ」
瞼にはっきりと映る。
白い白い鬼だ。
戦場で死ねないなら自分の首を掻き切るのは、その白い鬼でなければならない。
「晋助は何のために拙者が傍にいると思っている」
あらかた綺麗に拭き終えたところで手ぬぐいを離し、湯を張った洗面器に放り込むと直ぐに赤茶けた色に変色していくそれを見ていた。
「それから晋助を守るためにここにいるんでござるよ」
「違うだろう、万斉…てめーがここに居るのはそんなことの為じゃねェ筈だ」
余り俺を見くびるな、と吐き捨てるように告げて高杉は万斉から離れようと身を捩る。
「晋助」
「似蔵を呼べ、紅桜の一件…急がなきゃならねぇ」
「医者を呼ぶ」
「駄目だ」
「いいや、医者を呼ぶでござるよ。紅桜のことはそれから後でござる」
「今、俺の体のことは俺が一番よく分かってる。もう平気だ、動けりゃそれでいい」
「相当、無茶苦茶を言っている自覚はあるでござるか?」
「俺がいいと言ったら構うんじゃねェよ。さっさとしねぇと間に合わなくなる。それに大事を成す前に倒れたなんて皆が知ってみろ、士気に関わるって言ったのはてめェだろう万斉」
叱り飛ばすように語調を荒げた高杉は、万斉を睨み上げた。
「俺の言う事が聞けねェなら…」
「拙者などいらぬ、と?」
互いに暫らく睨み合う。
「酷い男でござるな、晋助は…」
苦笑するしか、なかった。
「拙者がお主から離れられぬことを知っていてそんなことを言う。それに拙者は晋助から離れる気も晋助を離す気もござらんよ」
「……」
「似蔵を呼んでくる」
膝をついて立ち上がった万斉の背中を見て高杉は何か言いかけた言葉を殺した。部屋を出る万斉と入れ替りに今度はまた子が姿を現した。
「晋助さま!」
擦れ違う万斉を見上げたが直ぐに起き上がっている高杉に視線を返して駆け込んだ。
「横になってなきゃ駄目っスよ!」
「平気だ」
「でも、まだお顔の色が悪いっスよ…」
叱られた犬のようにしゅんとなるまた子に高杉は小さく笑った。
こいつらはどいつもこいつも…。
「また子」
「はいっ」
高杉は人差し指で自分の横に座れとまた子を呼んだ。すると途端にまた子の顔が輝き飛びつくように腰を下す。その膝に高杉は頭を乗せて横たわった。
「しっ、し…晋助さまっ?」
驚いたのはまた子だ。これは所謂、膝枕という奴ではないか。
「ちょっ、どうしたッスか、気分でもわ、悪いっ」
「大声で喚くな。頭に響く」
「す、すみませんッス…でも」
「また子」
「はいっ」
「今度、着物でも買いに行くか」
「は、は…はいっ?」
「この間、京の四条に大きな反物屋が出来たろう」
「ああ、大きな老舗の二号店らしいッスよ?」
「浴衣、作ってやる」
「えーーっ」
「…大きい声を出すなと…」
「す、すみませんッス…でも晋助さまっ」
「不服か」
「ふ、不服なんてとんでもないッスよ!嬉しくて漏らしそうなんスけど…でも突然どうしたんスか…」
「さあ、俺も作りたいからついでだ」
どこか投げやりな口調だったが、じわりと目尻に涙が浮かんだ。
「ついででも何でも、晋助さまの気持ちが嬉しいッスよ…」