散りにけり あはれうらみの誰なれば
落ち着かない雰囲気で自習どころではない教室内にも、昼を過ぎる頃には、色々な噂が回ってきていた。尾鰭がついているものもあるだろうが、大体を掻い摘んで情報をまとめると、大凡の状況が掴めた。発端は、叫ばれた内容のまま、くの一の生徒が随分と消耗した状態で学園の門の所に倒れているのが見つかった事からだ。これに関して、くの一の教室では箝口令が敷かれていたらしいが、どうやらこれまでにも何人か、行方が知れなくなった後突然ふらっと戻る、という様な事があったという。それは数時間であったり、一日二日のこともあったそうだ。戻った生徒は皆、居なくなっていた間の事を覚えていないと報告している。それから、加えてもう一つ。件のくの一達は、落ちる気分を変える為か、四年の斉藤の元へ訪れ、髪を切ってくれと頼むらしい。
『切ってくれって言っても、整えるだけなんだけどね。なぜか皆、所々不揃いになっていて、それが嫌だって来るんだよ。』
これだけの騒ぎとなる事柄であれば不安も募るだろう。ましてや渦中の人間ならなおさらだ。彼の温和な性格にも、きっと癒されるのだろう。
「…これではまるで神隠しだな。」
小さく嘆息しつつ、仙蔵は手にした筆を彷徨わせた。情報を整理するには、紙に書くといい。文次郎もその内容を覗き込んで唸った。
「しかしこんな状態で帰ってきたのも初めてなんだろう。これまでとは状況が違うよな。」
「そうだが、当の本人が何も話さないのでは、さっぱり分らんな。」
そう言うと、仙蔵は筆を置いて、上空に翳した紙を睨み付けた。
その数日後。文次郎が自室に戻ると、仙蔵が先日着ていた花筏の小袖を身に纏い、鏡台の前で粧し込んでいた。
「どこかへ行くのか?」
「委員会で入り用なものがあってな。街まで調達しに行ってくる。お前も何か必要であれば一緒に買ってくるが?」
「お前に頼んだら高くつくだろ。」
「ふっ、偶には負けてやってもいいぞ。」
いつも正当な値段を徴収しろ、と思いつつも、仙蔵相手に言ってもしょうがない。今日はどうやら機嫌が良さそうなので、余計なことは言わずにじゃあ団子でもと伝えた。
「承知した、酉の刻までには戻る。」
「近頃は物騒だから気をつけろよ。」
「誰に言ってるんだ? では、行ってくる。」
文次郎は、長屋から出て街へ向かう後姿を小難しい顔で見送った。どうと言う訳でもないが、成長した仙蔵の女装は多分な色気を醸していて、批評に困るほどだった。口にすればまた面倒なので、勿論言ったりはしないが。
(…妙な気分になるな。)
ふと思った言葉を、打ち消す様に頭を振る。相手は仙蔵じゃないか。文次郎は気分を変えようと、まだ日が高いのを見て、仙蔵の戻るまで鍛練でもするかと立ち上がった。
「これくらいでいいか。」
店主が負けてくれたおかげで、目当ての物より少し上等な品を手に入れる事が出来た。良い買い物が出来たと満足した仙蔵は、暫く幾つかの店先を冷やかしてから、団子屋に寄って土産を頼み、待つ間に自分にも一つ買って、通りに面した席で頬張る。もうすぐ日が暮れる頃合いで、街並みは橙に染まり、誰そ彼の刻となっていた。
(おや、この男)
仙蔵が何とはなしに行き交う人々を見ていると、記憶の中の人物と合致する者が居た。先日しっかりと目に焼き付けた、不審者と疑った男だ。嫌な予感がして、仙蔵は男の動きを目で追いつつ、口の中に残った団子を茶で流す。手早く支払いを済ませ土産を受け取ると、平静を装ってもう一度男の位置を確認し、後を付けた。そうして暫く歩いて、仙蔵は覚えのある道順に思わず息を呑んだ。これは、学園に向かっているのではないだろうか。予感的中だな、と独り言ちる。男の歩がゆっくりになるのに合わせ、仙蔵は物陰に身を潜め、果たして辿り着いたのは、忍術学園の門が窺える場所だった。さてどうするか。このまま何もしなければ後で報告を上げよう。そう考え、仙蔵はもう少しだけこのまま観察することに決めた。何事もなく過ぎればいいと思っていたが、しかし、転機は直ぐにやってきた。学園の門をくぐり、くの一が一人出てくる。男の動きが一瞬止まり、くの一の動きに注目しているように見えた。男はゆっくりとした動きで近づき、凡そ二間程まで近づいたところで、何気ない素振りで懐に手を差し込む。その襟の内には、鈍く光るものがあった。
「危ないっ」
気付いたと同時、仙蔵は叫んで飛び出した。取りだした小苦無は、寸分違わず男の手元へと飛んでいく。
「ぃてぇっ!」
声と共に地に落ちた金属音が響く。視界の隅で一瞥すると、ぬらりと光る刀身が見えた。何か塗ってあると判って、仙蔵はさらに身構えた。
男の目当てのくの一は、きゃあと声を上げて身を翻し、門の内に逃げ込んだようだった。ほっと一息つきつつ、つられて追いかけようとした男の足元には再び苦無打ち込み、動きを封じてやる。対峙する一瞬の静寂の後、注意を完全に仙蔵に向けた男は、仙蔵の身なりを上から下まで舐めるように見分すると、下卑た笑みを浮かべた。
「へっ、予定とは違うがお前でもいいな。」
仙蔵は黙したまま、心の内で首を傾げる。予定とはなんだろうか。その言っている意味もわからないが、それよりも相手の様子が可笑しいのだ。全くの隙だらけで、逆に最初の一手を躊躇ってしまう。とりあえず捕らえた方がいいと判断し、ふっふっ、と短く息を吐いて呼吸を整えると、一度深く身を沈めて一飛びで間を詰めた。
「貴様はなんなんだ」
背後を取りつつ、思わず疑問が口をついた。手練れだと言われていた割りには、動きがお粗末なのだ。答えるとも思っていなかったので、一度落として縄をかけようとしたとき、不意に背後に気配が生まれ、延髄に重い一撃を受けた。
(しまった…!)
思った時には既に遅く、どうっと倒れ込む衝撃の後、口内に土と鈍い鉄の味が広がった。身動きの取れない身体を転がされ、腹を支点に担ぎ上げられたようだったが、運ばれる道順を覚える事なく、仙蔵の意識は途絶えてしまった。
どこからか、男の笑い声が聞こえる。ゆらゆらと揺れる意識が次第に明瞭になると、仙蔵は自分が腕を縛られ、小さな部屋に一人転がされているのだと判かった。目を開けると延髄に食らった衝撃が残っているのか、少し眩暈がした。自分が捕まってからどれくらい経ったのだろうか。仙蔵は深呼吸をして気分を落ち着けると、手首に掛けられた縄を、腕を擦り付けるように動かして確かめた。この程度の縄抜けならば仙蔵にとっては朝飯前で、外すのに数秒と掛からない。腕が解放されると、息を潜めて辺りを窺った。確か、自分が襲撃を受けた時には、男が二人はいたはずだ。仙蔵は、聞こえる声に集中する。どう動こうか考えながら耳を欹てて、聞こえる声色は二種類だと判じた。一人目の声は、くの一を襲おうとしていた方か。若干聞き覚えがあった。この場所はどうやら、薄く脆そうな木の戸で隔てた二間続きとなっているようだ。今いる部屋にはおよそ出口のようなものは無く、抜け出すには隣の部屋を突破しなくてはいけなかった。簡素な造りをしているので、多分その先に外へと続く戸口があるだろう。仙蔵が壁に寄り添い、そっと引き戸の向こうを窺うと、二人の男が酒を酌み交わしていた。
「女は本当に髪が大事だよなぁ。」
作品名:散りにけり あはれうらみの誰なれば 作家名:hnk