散りにけり あはれうらみの誰なれば
「あぁ、まさに覿面だったな。良くもころっと大人しくなるもんだ。」
「こないだの女はちぃと面倒だったが…ま、こうして同じようになってんだ」
隙間から垣間見える範囲に、男の手元があった。木箱の中から、束ねた糸のような何かを取り出して眺めている。糸を束ねる白い紙には、それらを区別する為か何か文字のようなものが墨で記されている。黒く細い糸の束はその中に幾つかあるようで、手に取っては鑑賞し、戻してはまた違うものを手にしていた。
「今日の女も上等だったし、この後が楽しみだな。」
「たしかに良い女だったな。」
女と言うのは、自分だろうか。一瞬考え、今の己の恰好を見下ろした仙蔵は、一人苦笑した。それから仙蔵をいい女と肯定した男が、続けて不穏な事を口にした。
「でもまた名無しのひと房が増えるな。」
「仕方ねぇだろ。てめぇの名前言えっつったって、そうそう本名明かすやつなんざいねぇからな。」
「確かに。」
「今日はちっと予定が狂っちまったけど、基本はやって、脅して、代わりの誰かを見繕わせたら、放り投げてはいお仕舞い、だからな。」
こんな楽なことはねぇ、と、男は声高に笑い声を上げる。酒が入った男は饒舌に、まるで手柄を誇るように語る。壁を一枚隔てたすぐ傍で、仙蔵はじっと話に聞き入っていた。尚も続く男の放言を、その単語の意味を汲み取り、繋ぎ合わせると、次第に最悪な筋道が出来上がっていく。背筋をひやりとした何かが通った。まさかこれは、今回の件の全貌ではないだろうか。事態に気付いた仙蔵は、その卑劣な遣り口に、目を伏せ拳を強く握った。要はこういう事だ。最初の経緯がどうだったかは知る由もないが、攫った女を手込めとし、事の露見を防ぐために次の生贄を指名させる。その際に精神的に追い詰める手段として、髪を切り落としたのだろう。そうして次の女を捕えた時に最初の女を解放してやる。漸く解放された女も、仲間を売った事実に口を開くことが出来ない。こうして、鬼畜の蛮行は繰り返され、明るみに出る事が無かったのだ。なんということだ。余りの内容に眩暈がし、ぐらりと目の前が傾いだ。
―ガタッ
「なんだ、起きたのか?」
「まだ寝てそうなもんだが、ちょっと見てくる。」
まずい。普段ならあり得ない失態だった。仙蔵は、近づく気配に息を殺して時機を計り、三、二、一、と数えてから、一気に伸び上がる。
仙蔵が立ち上がるのと、戸が開けられたのは、全く同時だった。
「うわっ」
顎の裏を狙って一人目を転倒させると、空かさずもう一方へ向かう。手持ちの武器は、運ばれる最中に落としたようで何も残っておらず、己の体のみで切り抜けるしかなかった。杯を持ち、唖然とこちらを見る男を蹴倒して乗り上げる。抵抗する手足を躱しつつ、小袖の裾を裂いて男を縛り上げようとしたところで、男の振り回していた手が囲炉裏の灰を掴み、仙蔵目掛けて投げつけられた。
「くっ」
怯んだ仙蔵を、下に居た男が力任せに撥ね退け、体勢を崩した肩を押して倒れたところへ体重を乗せて圧し掛かった。
「てめぇ、ちょっとお痛が過ぎるんじゃねーか?」
男は怒りを顕わに拳を振り下ろし、仙蔵の顔を打った。強い衝撃に、瞼の裏が明滅する。倒れた時に切った口内の傷口から、再びじわりと血が滲み出たのが分かった。しかしここで引く訳にもいかず、重い男の体の下から抜け出そうと何とか藻掻いた。男のように灰を浴びせようにも、囲炉裏からは先程より離れてしまっている。何か無いかと懸命に視線を巡らすと、ふと、男が見ていた木箱が目に入った。それに手を伸ばして何とか蓋を取ると、男に向かって振り回した。
「うわっ」
仙蔵の激しい抵抗に、男が咄嗟に対抗するように懐に入れた匕首を取り出して矢鱈に振り下ろす。そしてそれは、運の悪いことに仙蔵の腿を裂いてしまった。
「…っ!」
余りの激痛に仙蔵は声も無く体を強張らせ、手にした木箱の蓋をからんと落とした。男は、上がっていた息を深呼吸で落ち着け、辺りをぐるりと見渡した。
「チッ、おい、伸びてんじゃねーよ!」
馬乗りの男は、すぐ傍で倒れたままの男に呼び掛けるが、動く気配の無い様子にそれも直ぐに諦めたようだった。そして仙蔵を見下ろすと、にやりと笑い、手近の縄を手繰り寄せ手首に掛ける。
「ったく、んなに急がなくても直ぐ終わらしてやるよ」
腹の上に乗り上げたまま、肩を手で押さえて顔を寄せ、酒臭い息がねっとりと絡んでくる。襟元に手を差し入れて肌を探る男が、そこで、おや、と顔を上げた。
「てめぇまさか…」
言うや否や、男が仙蔵の裾を割って下肢を顕わにする。仙蔵は痛みに冷や汗を滲ませながら、驚きの表情を浮かべる男を見た。これで興醒めとなれば楽なんだが。否、それもどうか。男と分かった途端に殺されるかもしれない。しかしそんな懸念も、無用のものだった。
「こいつは驚いた…へっでもこんな形してんだ、野郎の相手はお手のもんだろ?」
直ぐに再び賤しい色の目をして、仙蔵の顎門を掴み上げた。なぁ、と囁いて、手を仙蔵の下肢へと移すと、傷口を抉る様に直に触れてやる。堪え切れず仙蔵が喉を反らして声を上げ、男は汗が筋となって流れるその白い頬を舐めて、下賤な声で嗤った。女のようにしようと自分を組み敷き見下ろす目に、仙蔵は初めて恐怖を覚えた。
(止めろ…!)
見るに堪えない光景に、仙蔵は気の入らない体を叱咤して、最後の力を振り絞った。
喉が痛い。夜の冷たい空気を忙しなく吸いこんで、焼け付くようだ。頭も痛い。眩暈が治まらず、吐き気がしそうだった。足も痛い。斬り付けられた傷は、足の付け根を縛るだけで済ませ、まともな手当ては出来るはずもなかった。体中どこもかしこも痛みの無い個所など無い。それでも仙蔵は痛む傷を押さえながら走った。どこだかもわからず、月の明かりだけを頼りに無我夢中で走る。止まってはいけない。今倒れたら、もう起き上がる力は残っていないだろう。だから、せめて人の居る気配のする場所まではと、必死に足を動かし続けた。春だというのに、まだ夜はこんなにも冷え込むのか。手足の感覚が無い。それが気温のせいか、痛みのせいかは、もはや判別できなかった。体力の低下と共に、目の前が霞んでくる。まずいな。頭の奥では激しく警鐘を鳴らしているが、既に走っているつもりの足元は、普段の徒歩のそれと変わらなかった。
(………?)
もう駄目かも知れないと覚悟を決めたところで、微かに人の声が聞こえた。惰性のように動く足を励まし、地面を蹴る。次第にはっきりしていく声は、よく聞き知ったもので、自分の名を呼んでいるようだった。仙蔵はそれに応えるように、枯れる声を張り上げた。もう前が見えない。ぼやける視界の中で、ようやく馴染みの装束らしき緑青色を捉える。その安堵から足元が崩れ、仙蔵は倒れこむ衝撃に身構えたが、暫くしても何故かそれは訪れず、その理由を確かめる間も無く再び意識を手放した。
「まだ暫くは安静だよ。仙蔵の傷、得物に毒が塗ってあったらしいんだ。根元を止めて回らないように努めていたようだけど、あんな状態だったしね。」
保健室から出てきた伊作が、集まった顔ぶれに説明する。
「大丈夫なのか?」
作品名:散りにけり あはれうらみの誰なれば 作家名:hnk