空と太陽を君に
アスランは立ち上がると、シンに掌を差し出した。けれどシンはぶんぶんと首を振って自分も立ち上がる。よろよろとよろめきながらも、コンピューターの前に来ると電源を入れて立ち上げた。ディスクを差し込む。
震える手で『REY』というファイルを開くと、そこには短い文字が羅列してあった。
『シン・アスカ
これをきみに』
たったこれだけだ。
しかしその下には添付ファイルが一つある。そこにカーソルを合わせてクリックすると高い警告音が鳴り響く。
どうやらファイルがロックされているようだ。しかし、そこにはIDを打ち込む場所しかない。
「何だ、これ…」
「シン…これ…指紋照合じゃない?」
首を捻っていると横から覗き込んでいたルナマリアがぽつりと呟く。
「指紋…?」
「そう。登録してある指紋と一致しないとファイルが開かないってあれ。極秘ファイルとかでよく使われてるじゃない」
「何で、そんな…」
やけに厳重ではないか。
「レイの、パイロットスーツの中に押し込まれるようにして入っていたんです。そのピルケースとディスクが。ファイルを開いたら『REY』っていうファイルがあったから、名前もレイにしたんです。まさか…本当に名前がレイだったなんて。それにもう一つの添付ファイル」
ユイはレイの傍らに立って悲しそうに言った。何度も何度も開こうとした。けれど…。
「貴方じゃないと…開けないみたい」
「………」
シンは自分の掌を見遣る。
一体、誰が…。
シンは名前を入力した後、おずおずと右掌をセンサーに翳して反応を待った。間もなくピィという高い音の後、モニターの中でロックが外れる。
「これ…」
「アルファリポ酸、コエンザイムQ10、ルチン…」
開かれたファイルには幾つかの薬品名とその配分量が事細かに書いてある。
「老化抑制の…」
どこかのデータファイルの中で見た物質だと直ぐに分かった。
あれからシンはテロメアや遺伝子、クローンについて色々と調べた。自分はレイについて何も知らなさ過ぎたから。そしてデータを開くたび、書物のページを捲るたびに胸が押し潰されるような苦しさを覚えた。
クローン故のテロメアの短さ。たった一つの中の細胞に92存在するテロメアが一つでも短ければテロメア短縮を感知し、p53とよばれる癌抑制遺伝子産物が作られ細胞分裂は停止してしまう。更にp53は老化が進む中、DNA損傷が激しいと細胞そのものを、アポトーシスさせる。そしてやがて、細胞の壊死が起こるのだ。
レイの体の中で、きっと今でも闘っている。
シンは震える指でスクロールさせると、一番下にメッセージがあることに気づいた。
「…新しく開発した抑制剤は…今までのものよりも幾分効果が高い。今後、私の手で直接レイに作ってやれない事が予想される。きみの手で…つくって、やって…ほし、い…」
ぼそぼそと口の中でだけ、そのメッセージを読んだ。最後に記された名前を見て、呆然とした。そこには確かに遺伝子で世界を、人類を区画統制しようとした人間の名前があったのだ。
「…ギルバート…デュラ…ンダル…」
その場に存在した誰もが息を呑む気配がする。
「ぎちょ…う」
のろのろと、ソファに座ってこちらを見つめているレイを振り返る。ふいに目が合った。何か声をかけたかった。けれど、何と言っていいのか分からない。
唇が震えた。
なのに、何も言葉を紡ぐことさえできない。
彼は…あの多忙を極める最中、レイのために新たな抑制剤を開発していたのだ。レイが明日を生きるための薬を。
希望を…可能性を…。
震える手で口元を抑えた。そうしなければ嗚咽が漏れてしまいそうだと思ったのだ。鼻の奥がつんとして喉のリンパ腺のあたりがじんじんと痛い。
「議長…」
(…ぎちょう…)
あなたは…。
やっぱり、あなたは…。
指を伸ばしてディスクを取ると大切そうに一度、掌で包み込んだ。目を閉じると黒い豊かな髪の穏やかな微笑みを浮かべた彼が脳裏に浮かんだ。
あなたを信じて、よかった。
後悔など…微塵もしていない。
暫らく考え込むのように佇んで、アスランを振り返る。
「少し、外に出て風にあたってきます」
「シン…」
大丈夫か?と小さく問うと彼は頷いた。そのまま踵を返して部屋から出て行ってしまう背中を、溜息をついて見送ったのだった。
ふと、何を思ったのかその直ぐ後をユイという名前の少女が追った。それを見てレイも立ち上がる。しかし何かを逡巡したのか瞳を揺らして立ち止まった。
行って、どうしたかったのだろう…。
***
「お願いですから…レイのこと連れて行かないで下さい」
扉を出て直ぐに、まるでナイフで刺されたような痛みを感じた。投げられた言葉は、ざっくりとシンの胸に深い傷を負わせる。
軽く俯けていた顔を、シンは上げた。
「あなたが、レイのこと…助けてくれたんですよね」
シンが問うとユイは小さく頷いた。
「一年前…死にそうな彼を見つけて運んで、必死になって看病しました。たくさん喋る人じゃなかったけど…記憶を失くした彼も、私の傍で多くを望まずひっそりと生きてきました。けど近頃…少しなら、笑ってくれるようになったの。彼が軍人であることは着ていたものから知っていましたが…死と隣り合わせの軍に還すことなんてできませんでした」
振り向けなかった。
彼女が今、どんな顔をしているか見なくても分かったからだ。
「それを決めるのは、オレじゃありません」
「え…」
「レイ自身が決めるべきだ。ここにいるのか、軍に戻るのか…」
「貴方の口から、レイに言ってください!軍には戻るなって。ここにいろって。だってレイは以前のレイじゃないんでしょう?貴方たちの知ってるレイじゃないのなら、彼を私に下さい」
とうとう、シンは振り返った。
「………」
目の前にあったのは、自分と同じ目をしたただの少女だ。寂しくて、一人ぼっちで…泣きたい気持ちを堪えているただの小さな少女。
たった一つ偶然に手に入れた宝物を必死で奪われまいと闘っている。
ああ、レイのことが好きなんだなあと、幾ら鈍いシンでも判ってしまった。それと同時に恐ろしさに目が眩みそうになる。何て純粋で強い愛情なのだろう。
いつの間にか胸の奥に小さなしこりが生まれた。
「………レイが決めたことなら、俺は彼の意思を尊重します」
それだけを言うのがやっとだ。
声は震えなかっただろうか。それとも…気づかれて、しまっただろうか。
踵を返して玄関前の三段ほどの木製の階段を下りて足早に湖へと向かう。背中に痛いほどのユイの視線を感じたがこれ以上、彼女と会話していたら、きっととんでもないことを口走りそうな気がした。
俺だって。
俺だってずっとレイを探し続けてきた。レイにもう一度逢うためだけに、こうして在り続ける。レイの口からレイの言葉で真実が聞きたかった。いや、本当は真実なんてどうでも良かったのかもしれない。
抱き合って、一緒に戦場を走って、オレたちの方がずっと絆は強い。あんたよりも、全然!
一緒にいたいと思った。それだけだ。
ただ、彼の傍で生きていたいと願っただけ。
そう言えたら、どんなに良かったかと思う。
「シン」