空と太陽を君に
家から少し離れた、湖の畔にある小さなベンチに膝を抱えて座っていたシンは、懐かしい声に名前を呼ばれて内心飛び上がる程、驚いた。しかし顔には出さずに少しだけ首を捻って振り返る。
レイ独特のセンテンス。
それだけで、酷く心が満たされるのを感じた。
ああ、やっぱり彼が好きなんだなあと思う。
「レイ」
小さく名前を呼ぶだけで、こんなに嬉しかったことはあっただろうか。記憶がないことに衝撃は受けたが、これが自分自身の紛れもない真実だと悟る。
レイが生きていたことに…どうしようもないほど喜びを感じていたのだ。
見上げたそこに立っていたのは、白いシャツのボタンをきちんと上までとめて仕立てのいいズボンを穿き、髪を後ろにきゅっと結わえているレイだ。
シンは微かに笑った。
「どうしたんだよ」
「…分からない。なぜか気になった…そっちに座ってもいいか」
戸惑うように寄せられた眉。シンは足をベンチから地面に下ろすと腰を右にずらして場所をつくった。
レイは素直にシンの隣に座ると緊張しているのか、膝の上に拳を作って置いた。何だかそれが可笑しくてシンはわざと明るい声を出すことにした。
「ここ、綺麗だな。アーモリー1には結構、住んでたんだけど俺…こんな場所あるなんて知らなかった」
視線を湖に投げれば、そこはまるで自分が知る地球の海にも似た深い色が眠っている。妹のマユかステラがいれば小さな砂利が敷き詰められた水打ち際を裸足で駆け回っていたかもしれない。
そんな景色が目を開けていてもシンには浮かんで、きゅっと胸が締め付けられるのだ。その、どこか夢を見るようで、切なく眉を寄せた横顔をレイはじっと見つめた。
「シン…アスカ」
「………」
「オレはお前にとって…」
「レイ!」
シンの声に驚いたのか、レイの動きが止まる。
「もういいんだ。オレ…ずっとレイに帰ってきて欲しいって…それだけを思ってたのに…生きていたんだって分かったら…何かホッとして…これからどうしたいのか良く…分からなくなった」
「お前にとって、オレは一体なんだった?」
レイの綺麗だが節ばった指に肩を掴まれる。久しぶりに感じたレイの体温にシンは一瞬、縋ってしまいそうになる自分を律した。レイの指を振り払おうと、腕を上げる。しかしレイは強固に掴んだまま離さなかった。
「オレはずっとお前にそんな顔をさせるような…人間だったのか?」
「レイ…離して…」
「なぜ、ちゃんと顔を見ようとしない。なぜそんな痛みに耐えるような顔をする」
「レイ、やだ…離せよっ」
「シン!…オレはお前に何をしたんだ…」
身を捩らせたシンの手首をぎゅっと握ってレイは声を荒げた。
「何もかもを忘れて…ここに居る間中…オレはずっと何かをしなければならないと思っていた。誰かに会わねばと…ずっと暗い闇で泣いている子どもの夢をみていた。その子どもの泣き声も泣き顔もとても悲しいもので、何とか慰めようと腕を伸ばすのに届かない。触れたいのに触れられない…それは…」
お前だったのか…シン?
見下ろしたシンは色のない顔を強張らせて、黙り込んでいた。伏せられた睫毛が震えるのを見て泣き出すのではないかと思ったが、シンの瞳から涙が零れることはとうとうなかった。
「それは…きっとオレじゃないよ…」
「シン…」
「それはきっと、レイ自身だ」
風が冷たかった。
「だからおれ、レイを守るよ。今度こそ…ちゃんと」
ふいに顔を上げたシンは笑っていた。
「軍になんか戻らない方がいい。ここにいて、幸せに笑ってくれている方がいい」
その方が自分にとっても嬉しい。
傍にいれば、きっと全てを忘れてしまったレイに勝手に期待して縋ってしまう。それより戦争とは遠い場所でレイが生きていると思うだけで強くなれる。
「ここは、絶対にオレが守るから。だから」
青い目は、いつだって澄んでこちらの嘘を看破するように見つめてくる。けれど、自分も昔の自分ではない。
「オレは大丈夫だし…会おうと思えば会えるし、レイは自分のことだけ考えて。体大切にして」
な?
まるで子どものように微笑んで、シンはレイを諭す。
「生きていてくれて…ありがと、レイ」
本当はそれだけで、奇跡なのだと思った。
「さ、帰ろうぜ」
勢いをつけて立ち上がったシンの細い顔の輪郭が傾きかけた太陽に染まっていた。真っ赤な目は光の反射でオレンジ色のような色味を出してとても不思議な感じだ。
「シン…」
「あの子、待ってるよ。レイのこと助けて…ずっと世話してくれてたんだろ」
少しだけ妹に似た少女の面影をシンは思い浮かべた。敵意を剥き出しにこちらを睨んだのはレイのことを取られると危惧したからだろう。真っ直ぐな愛情。それならば、自分が持つレイへのこの気持ちは何なのだろう。
愛?恋?友情?どれも当て嵌まってどれも違う気がした。
冷たい乾いた土を白いブーツのつま先で確かめるように踏んで、シンはレイを振り返った。
「さっき、レイはオレにとって何だったのか聞いたよな」
逆光のせいでシンの表情が読みづらい。レイは目を眇めて立ち上がった。近づこうとする彼を制するようにシンは笑う。
「オレとレイは、アカデミーからの友達だった。ザフトに入っても…俺にとってレイは…大切な戦友だったよ…命を懸けてもいいと思えるくらい」
大好きだった。
「戦友…?」
「そう、戦友だ…それ以上でもそれ以下でもない」
だから、気にしなくていいよ。
それだけ言うと固まってしまっているレイの脇を通り抜けてシンはルナマリアやアスランが待っているユイの家へと歩き出した。
自然のないプラントは人工的に季節を作り出す。吹いた風は冷たく太陽が傾くと気温がぐっと下がる。誰かの温もりも無い。
寒さを感じるのはきっとそのせいだと思った。
一人歩いて、家を目指していると扉の前にルナマリアがミニスカートから伸びた足を惜しげもなく晒し、腕組みをして立っているのが見えて、シンは唇を噛んだ。
「強がっちゃって」
「うるさいな、ルナは」
コツコツと互いに歩み寄る。顔を合わせるとシンは膨れっ面を隠そうともしなかった。
「盗み聞きしてたのかよ」
「盗み聞きなんて、人聞き悪いこと言わないでよ。アンタを呼びに行ったら聞こえただけよ」
そろそろ艦に帰ろうとアスランに言われて、シンとレイを呼びに行ったルナマリアは、そこでシンのシンらしからぬ言葉を聞いた。
メサイアが沈んでからシンの心の支えは生きているか、死んでいるかも判らないレイだけだった。悔しいが…シンを奮い立たせるのは自分ではなかったのだ。それでもルナマリアにだけは、自分にしか判らないように甘えてくるシンを放っておけず、巧く距離を保ちながらシンを支え続けた。
一年をフラフラになりながらもどうにか自分の両足で立って漸くシンの願いが叶ったというのに、レイは記憶がないという。彼がレイ・ザ・バレルとして生きてきた十数年も、何のために闘ってきたのかも、ルナマリアのことも、そして誰より近くにいたシンの存在までも。
何も覚えてないなんて。
シンにかける言葉も見つからない。
ルナマリアはシンの真正面に立つと細く吐息した。泣きそうに歪められた顔を見て彼女は苦笑する。
ずっとずっと我慢していたのだろう。
「馬鹿ね、本当に」
「うるさい…ルナに言われたくない」