空と太陽を君に
ルナマリアは腕を伸ばすとシンのぷいっとそっぽを向いた冷たい頬に指先を触れさせた。その手を滑らせて濡れたような、存外、柔らかい黒髪に絡ませる。少しだけその感触を楽しんでルナマリアはきゅっと引っ張った。
「本当に、馬鹿なんだから…」
引力に引かれる様に、シンは俯いてルナマリアの肩口に額を乗せた。彼女のこうした優しさが今のシンには十分過ぎるほど堪える。
襟足からはルナマリアが使っているシャンプーの匂いがして何となくほっとした。僅かに力の抜けたシンの背中を何度か撫でて、彼にだけ聞こえるように呟いた。
「レイ、生きていて良かったね…」
そこには他でもない、今まで何も言わなかったルナマリアの本心があった。ルナマリアだってレイのことは好きだったのだ。 友人としても同僚としても。
「良かったね…シン」
「…うん…ルナ…」
「………」
シンからは見えなかったがルナマリアは丁度、こちらに帰ってきたレイと目が合った。驚いたように見開かれる青い目を挑戦的に見つめ返すとレイが何かを言い出す前にシンの体を離した。
「体、冷たくなってるわよ。レイを呼んで来るから先に入ってなさい」
「え?…ああ、うん」
体を反転させてシンの背中をぐいぐいと押して開いた扉の中に押し込んだ。ぱたんと扉が閉まったのを確認してルナマリアは背後にいるレイを振り返った。暫らく黙ったまま見つめあう。
「あんまり、変わってないね」
「…貴方は確か…」
「………」
まさかアカデミーからの付き合いであるレイに誰何の声を投げられる日が来るとは思いもよらなかった。ショックというより、何だか気が抜けてしまった。
苦笑してレイの居る場所まで歩み寄る。
「ルナマリア、よ。ルナマリア・ホーク。シンと同じでレイとはアカデミーからの付き合い」
最後は…恋敵だったのかもしれないけれど。
「ルナマリア、さん」
その物言いに思わず吹き出していた。
何ですって?
「ちょっと…やめてよ!レイにルナマリアさんなんて呼ばれたら笑っちゃう!ていうか気色悪いっ」
笑いを噛み殺したルナマリアがお腹を抱えて震えるのを見て、レイは不機嫌そうに眉を寄せた。
「ルナマリアでいいわよ」
「ルナマリア…」
「そ。本当に…忘れちゃったのね。あたしのことも、シンのことも…」
真っ直ぐに見上げたレイの顔は自分たちがよく知る彼のものだった。怖いくらいに整っているために冷たい印象を受けるレイだが、本当は面倒見のよい優しい人間だ。
レイは何かを迷うように唇を噤んでいたが、ふいに顔を上げると口を開いた。
「ではルナマリア。オレはどんな人間だった。オレの過去…誰と関わってどんなことをしていたのか、教えてくれ」
滅多に見ることのないレイの必死の形相に、少し驚いた。けれど、ずっと自分が何者かも判らないままジレンマを感じ続けていたのだろう。
小さく溜息をついて何事か思案したあとゆっくりと口を開いた。
「レイの名前はレイ・ザ・バレル。前の議長ギルバート・デュランダル氏とは家族同然の付き合いだった。軍ではエリートの証の赤服を着て、私達の同期の中でも成績は常にトップだったわ。レイとシンと私は卒業後もずっと一緒で…プラントと戦争を終わらせるために闘っていた。レイの乗っていた機体はセカンドシリーズZGMF―X666Sレジェンド。戦争が終盤に差し掛かった頃のレイは少し怖かったけど…いつだってシンの傍にいて支えてた」
あの頃のレイは、何か必死でシンを繋ぎとめていたように思えた。外部からシンへの接触に目を光らせて時には自らが遮断して、ただ一人…シンだけを。
「そうか…そうだったのか…」
「MSに乗って、宇宙を駆け回って戦争してた」
「………」
青い目はずっと伏せられて、レイはどこを見つめているのか、ぼんやりと拳を握ったり開いたりしている。
「人を、殺していたということか」
「!」
これにはルナマリアが打たれたように閉口した。確かに自分たちは戦争の名の下に闘い続けたかもしれない。自分だって罪悪感がないと言えば嘘になる。けれど…。
「そうよ。軍人だもの」
気丈にも顔をあげてルナマリアは言い切る。
「けど、苦しんでたシンを傍でそう言って支えていたのはレイじゃない」
「オレが…シンを?」
以外そうに目を見開いて、レイの心に赤い目をしたシンの姿が浮かんでは消える。特務隊などに所属している軍人であるシンを自分が?
「…あんたにとってシンはどういう存在だったかは知らない。レイはそういうこと、口に出して言うような奴じゃなかったし。ただシンにとってレイは…」
あの扱いにくいと言われて暴走しがちなシンを宥め制し、甘やかして時には認め肯定する。そうやってずっとシンの傍にいた。
「シンにとっては、唯一レイが信頼できる相手だったんじゃないかな。悔しいけどレイの傍では態度が全然、違ったしね。あんたのこと…本当に好きだったんだと思うのよ」
精神的に苦しくなっていった戦争の終盤、ルナマリアが躊躇うほどシンはレイから離れなかった。そしてレイもシンを手放さなかった。
それなのに…。
「今は、離れ離れね」
その言葉に互いに胸がぎゅっと締め付けられた。
「レイ…私がこんなこと言うのも可笑しいけど…ずっとあんた達を見てきた一人として言うわ」
あくまで真剣な彼女の瞳に僅かに圧倒されながら、レイは軽く息を呑む。
「シンを置いていったら…わたし、レイを許さない」
「ルナマリア…」
暫らく無言で見詰め合った。ルナマリアの目は息がつまるほど何かを訴えるものであったし、レイもまた黙ってその視線を受け止めた。
彼女にここまで言わせるほど、シンと自分は深く繋がっていたというのだろうか。それさえ思い出せない。もどかしい気持ちに唇を噛むが胸のうちにある憂いは晴れない。
「………」
ふと、シンの言葉を思い出す。
『戦友だ…それ以上でもそれ以下でもない』
それは…シンの本心なのだろうか。それとも、違うのだろうか。今のレイにはそれさえわからない。過去の自分であったなら、その答えはきっと容易に想像できたのかもしれないが。
「なんて…今のレイにはレイの事情があるものね。でも…もうシンが辛いの見てられないよ。どうにかできるの…レイしかいないから」
腰に手をあてて、さばさばと言ったルナマリアは小さく笑うと腕を伸ばしてレイの手をとった。
温かくて、柔らかい。
その体温がじわりと伝わった。
「生きてて、良かった…。それだけよ」
突然、その軍人は閉ざされてしまった狭い視界に鮮やかな色を持って現れた。
彼の名前をシン・アスカという。エリートの証であると言われているザフト軍の赤い軍服を身に纏い、柔らかそうな黒髪に目が覚めるような赤い濡れた瞳は、レイの視線も意識も全てを奪った。
彼が必死で叫んだ言葉の意味の全てが判らなかった。彼の涙の理由さえ見当もつかずただ剥き出しにされた激しい感情に息を呑んだ。けれど、どこか懐かしい…なぜか安堵感を覚えてしまう。
全ての記憶を失って、この家に流れ着きユイもユイの祖母も親切だった。
自分は誰なのか、どんな人間で何をしてきたのか…名前は唯一ピルケースの底に刻まれてあったことで判明した。