空と太陽を君に
全てを失って、これ以上、失くすものなどないと思っていたのにシンの声を、言葉を聞くたびに心に穴が一つ、またひとつと空いてゆくのを感じる。
何かとても大切なものを、大切な人を…忘れている気がした。
シンに着いて行けば、それは軍に戻るということなのだろうか。何も知らないのに。何一つ覚えていないのに。
それでも彼と一緒にいれば、その大切な何かを思い出すのだろうか。穴の空いたパズルのピースを一つずつ埋めていくように…いつか一つの絵が出来上がる時がくるのだろうか。
ただ、シンの悲しい目が焼きついて忘れられない。
日が傾いてしまい湖の向こうに隠れようとする人工の太陽の光を強烈に浴びて、レイは眉間に皺を寄せたまま押し黙った。 白磁の頬がオレンジ色に染まり乾いた土に長い影を作る。
目を細めて太陽を睨み、レイは拳を握った。
***
ヴェサリウスはインパルス発進システムを組み込んだ最新鋭のナスカ級の高速戦闘艦の改良型だ。第3工廠に置いていたインパルスを移動させた後、艦はアスランたちを乗せてアーモリー1を後にした。
展望室のガラスに手をついて真っ黒い闇の中を進んでいると、意識がどこか置き去りにされるような気がした。ただぼんやりと見つめていると今日、知ったばかりの気配がして横を振り返る。
「レイ…」
床を蹴ってきたのか僅かに勢いがついたシンの体をレイは腕を出して受け止めてやった。それから視線を外へと返して早いスピードで通り過ぎて行く、暗闇に浮かんだ隕石を見つめる。
レイは私服だ。先ほど着ていた白いシャツのままで艦をうろつくのは随分と目立ったが未だに軍服に袖を通すことに少しばかり抵抗があるらしい。それもその筈だ。ついさっきまで、彼はただの一般人として生活をしていたのだから。けれど、こういう服もレイはよく似合っている。
「軍のこととか、少し聞いた?」
手すりを持ってレイの傍らに立つと、彼は頷いた。
「少しだけな」
「そっか…判んない事あったら、俺とかルナとか居るし」
ガラス窓に艦内とレイとシンが映りまるで鏡のようだ。シンは何となくレイを凝視できずにそこに映る彼を見ていた。
「これから…どこに行くんだ」
「アプリリウス。プラントの首都だよ」
「そこへ行って何をするんだ」
面と向かって聞かれると、シンは返答に困って喉を詰まらせた。
「なに…何だろ…取り敢えず記憶の事とか…何とかするか…な。うん…多分」
腕を組みながら曖昧な返事を返すシンを、レイはどこか穏やかに見つめた。それがとても儚く思えてシンはふと嫌な予感に胸を締め付けられる。
「…レイは、もしかして思い出したくない?」
恐る恐る尋ねると、青い目を細めてレイは自分の掌を見下ろした。
「さあ、よく判らない。思い出そうとして考えるんだが…酷い頭痛に襲われる。夢の中で、それらしいものも見たりするが確証がない」
睫毛を伏せてしまったレイを心配そうに見上げて、シンはきゅっと唇を噤む。これ以上、何かを言うと先ほど大決壊した涙腺がまたもや馬鹿になりそうだったからだ。
思い出そうとすると頭が痛むのは、思い出を拒否しているせいだ。思い出したくない過去だから体全部が拒んでいる。
「宇宙…こわい?」
話を、変えたいと思って咄嗟に出た問いが陳腐なものだとはシンも思った。思ったが本当に訊きたいことは、今は訊けないことも承知している。しかし目を丸くしているレイに気が付いてどーんと落ち込む。もう少し気が利いた会話の一つも浮かばない自分のボキャブラリーが少々憎くなるのだ。
しかし、レイは少し逡巡したあと、こう答えた。
「いや…怖くはないが…不思議な気持ちだ」
「オレも、最初に宇宙に出た時は変だったよ。ふわふわして怖くて…自分がどこにもいない気がした」
「そうか」
「うん」
「お前は、ここに居る」
突然、レイが腕を上げてシンの頭をぽんぽんと二度ほど柔らかく叩いた。それは以前、レイが落ち込んでいるシンによくする慰めの一つで、シンは目を瞠った。
「レイも…ここに居るよ」
「…そうだな」
笑いかけられてシンは頷くとふと顔を上げてこっそりレイの横顔を盗み見た。細い滑らかな顎もそれを覆うように流れる金色の髪もそのままだ。真っ直ぐに向けられた青い目だけが…戸惑いに揺れることが、シンは悲しさを覚えるのだ。
「あのさ」
「?」
くるりと体を捩ってガラス窓に背中を向けて、手すりに腰掛けるようにして凭れる。真っ直ぐにレイの顔を見ることが出来ずに床へと焦点をあわせて。
「本当に良かったのか?…あの人たちと離れてさ」
「良かった…と言えば嘘になる…。彼女たちには感謝もしている。だがあそこに居ても本当のことは判らない。ずっと自分が誰かも判らないまま死ぬのは嫌だと思っていた」
「死ぬなんて…言うなよ、レイ」
知らず知らず、手すりをぎゅっと握り締めて胸の内で沸き起こる衝動を耐える。なぜ簡単にそんなことを言うのだろう。
「シン…」
「この1年、どんな思いでレイのこと探してたと思ってるんだよ。そりゃ…レイは探してくれなんて一言も言ってないって…そう言うかもしれないけど…オレは…」
俯いたままの頬にふと冷たい指が伸ばされて、シンはハッと顔を上げた。
「お前と出会ってから、俺はお前にそんな顔ばかりさせている」
覗き込んでくるレイの視線から逃げるように、シンは顔を逸らせた。
「違う、ごめん…」
「シン?」
「俺、そんな事が言いたかったわけじゃない。俺がどうしたとか、そんなの関係ないんだ…ただ…もう一度だけレイに会いたいって…それだけ」
レイの指から離れようと首をぶるぶると振ると、一瞬、指先が離れて胸がぎゅっと締め付けられた。その痛みに耐えるように眉を寄せると、今度は掌が壊れ物を包み込むようにして触れる。
「あ…」
「忘れてしまった事に罪悪感を持ったのは今日が始めてだ」
「レイ…」
消えそうな声に驚いて、思わず見上げたレイの顔は困ったように笑っていた。
「忘れてしまったことも、運命なのかと思っていたが…どうやら俺はお前のそんな顔が苦手のようだ」
頬にかかっている黒髪の先を指で挟んでまるで子どもがするようにレイはシンの頭を撫でた。
「………」
柔らかい掌。
「俺、最低だ…」
「何がだ」
「レイが、ここに存在してるってこと…凄く嬉しいって思ってる。残された人たちが辛いの俺が一番知ってるのにな」
ずっと触れてくれているレイの掌が温かくてついつい頬を預けて目を閉じると、見送りに来ていたユイという少女が瞼をちらついた。きっと泣いていた。
自分の知らないレイを知っている少女。
けれど、自分だって簡単に諦めてしまえるなら、こんな必死の思いでレイを探したりしなかった。軍なんてやめてどこか遠くで暮らしていたかもしれない。
黙ってしまったシンにレイはぽつりと呟いた。
「それを言うなら、俺だろう。恩を仇で返すようなことをしてしまった」
「違うよ、レイ…俺が卑怯だったんだ」
ごめんな…。
謝罪の言葉は唇の上でだけ呟いた。
真実が知りたかったと言った。けれど本当はもうそんなものどうだって良かったのだ。ただ自分の思いを満たすためだけに戦い続けた。そうすることで、レイが帰ってくるのではないかとそう思ったから。
「またその顔だな」
「え?」