フリージア・中編
日が昇り、清掃員がその存在に驚いたのをきっかけに談話室を出たレイは、その日、部屋には戻らなかった。
ふわあ、と大きな欠伸をひとつして、シンは先程したたかに打ち付けたおでこを確かめるようにそっと指を伸ばした。明らかにぷっくりと膨れたそれは、たんこぶと呼ぶに相応しい。
(ヴィーノのやつ、寝相悪過ぎ!)
それでもひとりで眠るよりはずっとマシだった。ヴィーノの一級品のいびきも歯ぎしりも、シンにとっては子守唄のようにすら思う。有無を言わさず夜な夜なヴィーノとヨウランの部屋に転がり込んで2週間、シンは一度も悪夢を見ずにいた。
(でもさすがにこれをずっと続けるわけにもいかないよな…)
レイと、してもいない喧嘩をしたと嘘をつくのは正直きつかった。初めのうちはそれでも良かったが、いい加減ヴィーノもヨウランもおかしいと思い始めているだろう。
(それでも………)
すっかり慣れてしまった忍び足で部屋に入り、日課と化しているレイの寝顔を…とベッドにつつつと近づいて、シンは異変に気付いた。バスルームを確認し、手洗いを開け、そんなわけは無いと思いつつクローゼットまで確かめて、漸くこの状況を認めた。
レイが、レイがいない!
探しに行こうかとも勿論考えはしたが、レイが戻って来た時に自分がいないというのも嫌だと思い、結局部屋で待つことにした。したはいいがじっと黙っていることも出来ず、室内をぐるぐると歩き回っては何度も部屋の外に出て廊下をきょろきょろと見回し、そんなことを何度も何度も繰り返しているうちに登校時間になった。
今までこんなことはなかった。どうしたんだろう、何かあったのかな、いやでも何かあったのなら騒ぎになるはずだし………。
もやもやとした気持ちのまま制服に着替え、のろのろと支度をし部屋を出たシンは気付いていなかった。レイに、深夜の外出を知られてしまったということを。少し考えればわかりそうなことだが、レイの不在で頭がいっぱいでそれどころではなかったのだ。そしてそれがレイに知れた時、自分は一体どうするつもりなのか、勿論全く考えてなどいなかった。
シンの右にひとつ、後ろにふたつのところに位置するレイの席は、その日一日空席のままだった。
休み時間は全てダッシュで寮に戻った。医務室も、談話室も、図書館も、何度も確認した。ヨウランやヴィーノやルナにも、レイを見かけたらすぐ教えて貰えるよう頼んだ。けれど、レイは本当にいなくなってしまったのだ。シンの目の前から。
全ての授業を終え、何かに憑かれたようにアカデミー正門を飛び出して行ったシンを教室の窓から眺めていたヨウランは大きく息を吐いた。その様子を黙って見ていたヴィーノは不安気に眉を寄せる。
「…ホントにあれで良かったのかな」
俯いたヴィーノを振り返り、今度は大袈裟に溜息を吐いてみせた。
「良かったも何もしょうがないだろ、レイに口止めされてんだから」
「でも………」
俺だって嫌だよ、あんな必死になってるシンに嘘吐くのなんて、ヨウランは心の中でひとつ舌打ちをすると、自己嫌悪に陥りまくっているヴィーノのおでこをチョンとつついた。
「俺たちがウダウダ言っても仕方ないだろ。今朝のレイの様子じゃ何も知らなかったみたいだし。きっと何か二人にしかわかんないことでもあるんだよ」
それでも納得がいかないという様子のヴィーノをけしかけるように教室を後にしつつも、確かに解せないことばかりではあるとヨウランは思った。
シンはどうして嘘を吐いてまでレイの居る部屋から『逃げて』きていたのだろうか?普段はあんなにレイに懐いているくせに。
(レイ………どこ行っちゃったんだよ………)
息を切らし、慌てすぎて縺れる手足を押さえながら開いた扉の向こうにもレイの姿は無く、シンはその場に呆然と立ち尽くした。足元がぐらぐらする。膝が震えて力が入らない。
(どうしようどうしようどうしようレイがいなくなったら俺は、)
シンはやっとの思いで一歩踏み出し部屋に入ると、閉じた扉を背に硬く冷たい床にずるずると崩れ落ちた。
俺を心配だと言ってくれたレイ。
俺を…迷惑じゃないと、そう言ってくれたレイ。
俺の好き嫌いを叱ってくれたレイ。
俺の成績を褒めてくれたレイ。
俺の………俺の………………………
「あ…あ………」
指先が痙攣する。息がうまく出来ない。吸って、吐いて、吸って…。暗く狭い穴に堕ちて足先を引っ張られる。シンは必死でもがく。駄目だ、まだ駄目だ、レイが戻って来るかも知れないんだから、ちゃんと待ってなきゃ………。
とても自分のものとは思えないほどいうことをきかない身体を文字通り引きずり、這うようにして部屋の中央へ移動した。
(レイ………)
膝を抱えて座り、細い顎を乗せてシンは待った。扉が開き、戻って来たレイが自分の名前を呼んでくれることだけを考えながら。
レイは少しばかり後悔…いや、後悔という言葉は嫌いなので反省ということにしよう。反省し始めていた。授業を丸一日欠席してしまったのだ。いくらシンの顔など見たくもないと思ったとて、何もアカデミーまで休む必要など無かった。
………腹が立った?何故だ。
寮に向かい、街頭の灯りにぼんやりと照らされた道を歩いていたレイはふと足を止めた。
(………どうかしている)
レイはその説明のつかない混沌とした気持ちを振り払うように無造作に前髪をかきあげると、再び歩き出した。
シンのいない、自室に戻るために。
自動扉の無機質な機械音のあと、目の前に現れた真っ暗の室内に思わず自嘲的な笑いが漏れる。深夜2時。いつものシンならとうに部屋を抜け出している時間だ。扉の脇にあるスイッチに手を伸ばし、部屋の明かりを点けたところでレイは目を剥いた。
「…おかえり、レイ」
それは誰もいないはずの部屋の中央、膝を抱えてちょこんと身を置いたシンが発した言葉だった。返す言葉も思いつかず入り口で立ち止まったままのレイに、シンはのそのそと寄ってきた。もともと赤い目が、熟れた果実のように濡れている。…泣いていたのか?近づいてくるシンを見下ろしながら、レイの心はざわざわと揺れた。
「…どこ行ってたんだよ………心配、した」
唖然とした。心配だと?自分は俺の目を盗み部屋を抜け出しておいて、心配しただと?こいつには一貫性というものはないのか。何だその縋るような目は。
レイ、とズボンの裾を掴んだシンを見ないようにしてその手を払うように足を動かし、上着を脱ぎながら出来るだけ低い声で言った。
「…では俺も聞こう。お前は毎晩毎晩こそこそと何をしている」
途端ぴたりとシンの動きが止まり、レイがゆっくりと見遣るとふい、と目線を逸らした。
「そうか、言いたくはないか。では俺が答えてやろう」
自分でも驚くほどすらすらと言葉が出た。
「お前は俺と同室なのが余程我慢ならなかったらしいな。俺が居ると眠ることもできないのか?ヨウラン達の部屋でわざわざ睡眠補給だと?しかも俺とは喧嘩をしていたようだな、生憎俺の記憶にはないが」
一息に吐き出し、これ以上話すこともないとレイはシャワールームに向かおうとして、がくんと膝をついた。
「なっ…」