フリージア・中編
シンが思い切りズボンの裾を掴んだのだ。前のめりに倒れたレイは体を返し、床に腰をついたままぎろりとシンを睨んだ。
「何を…」
「違う」
その声があまりにも強く、断定的なことにレイは些か驚いた。
「俺は…っ」
「何が違うんだ、俺は事実を言っただけだ」
見つめ合うというよりは睨み合うような格好で向かい合う。先に目線を外したのはシンだった。それを合図のようにしてレイは大きく溜息を吐き、努めて冷静に言った。
「…部屋代えの希望は俺から提出しておく」
シンの肩がびくりと揺れたが、レイはそれに構わず立ち上がる為に足を引いた。幾分控えめに足を揺らしたが、シンは掴んだズボンの裾を離そうとはせず、かと言って何を言うわけでもなく黙り込んで俯いたままだ。今日何度吐いたかわからない溜息を吐き、離せ、とレイは吐き捨てるように言った。
「………嫌だ」
あまりにも小さく消え入りそうなその声がレイにはよく聞き取れず、なんだと?と問い返そうとしてそのまま仰向けに倒れた。一瞬の出来事だった。ごつ、と乾いた音がして、それが自分の後頭部から出た音だと気付いたときには目の前にぐちゃぐちゃの顔のシンがいた。何が起こったのかわからずに呆けていたレイは、シンの言葉に益々混乱した。
「俺は、俺はレイにこれ以上迷惑かけたくないって、だから、だから………」
ぱたぱたとシンの両目から涙が零れて、レイのシャツを濡らした。胸に落ちる雫を黙って見つめていたレイは、ずきずきする頭を僅かに持ち上げ、両肘を付き上半身を起こした。とりあえず、シンに押し倒されたままの体勢でいるのが嫌だったのだ。
「………俺に迷惑をかけるのと、お前が夜中に部屋を抜け出すことに何の関係がある」
「それは………」
言いよどむシンにレイは長い溜息を吐き、どけろ、と低く唸った。シンはふるふると首を振り、一瞬躊躇ったのち、夢を見るから、と呟いた。
「夢?」
意味がわからず問いかけると、シンはぼそぼそと話し始めた。蚊の鳴くような声というのはこういうことを言うのだろう。
「…オーブの夢、いつも見る。め、目の前で家族が死ぬとこばっかり。俺、魘されるから、だから………」
「………」
はっきり言ってシンの言っていることは要領を得ない。レイは必死でシンの言葉を頭の中で整理した。そしてふと以前うたた寝していたシンが魘されていたことを思い出し、その時のシンの態度がおかしかったことに少しばかり納得がいった。
「俺の前で魘されるのが嫌だから、違う部屋で寝ていたとでもいうのか」
シンはこくりと頷く。
「…ヨウランやヴィーノの前でなら魘されてもいいのか」
シンはちらりとレイを見上げて一拍置いたあと、目を逸らした。
「………見ないから、夢」
その気まずそうな言い方に、レイの神経はぴくりと反応した。シンの言っていることが全て本当のことであるならば、俺と同じ部屋で寝ると夢を見て魘されるが、ヨウランやヴィーノであれば魘されないということになるではないか。まるで自分を否定されたような気がして、治まっていたはずの怒りにも似た感情がふつふつと湧き上がる。
「…要するに、お前は、俺では駄目だということか」
一字一句、まるで自分に言い聞かせるように発した言葉に、我ながら笑いが込み上げた。今まで散々自らが周りにしてきたことではないか、と。過度の詮索や干渉を嫌い、遮断してきた。自分が今までしてきたことだ。どうしてシンを責めるようなことが言えよう。あまりの愚かさに、レイは最早笑うしかなかった。
しかし、くっくと笑うレイに、シンは至極真面目な顔でこう言ったのだ。
「だって俺、レイとは一緒に寝れない」
「…は?」
レイは耳を疑った。シンの支離滅裂振りはそれなりに把握しているつもりではあったが、今のこの発言はあまりにも、あんまりではないか?
「…シン、一緒に寝れないとはどういう意味だ」
思わずレイも真顔で聞き返す。
「だから、レイは駄目だろ?俺も…無理だし」
「シン、意味が全くわからない」
「だから、嫌だろ?レイだって、その…」
「…はっきり言え」
あからさまに苛々とした口調でぴしゃりと言うと、シンは観念したようにひとつ深呼吸をした。
「俺と一緒に寝るのなんて、嫌だろ?」
一緒に寝る、ということの意味が文字通り『一緒の布団で寄り添って眠る』を意味していると理解したレイは、正直なんと言って良いのかわからなかった。そんなこと…という気もするし、それくらいのこと、という気もする。それよりなにより、レイにはひとつ聞き捨てならない台詞があった。膝の間に座り込んだまま、ちらちらと忙しなくレイの反応を窺っているシンをじろりと見遣る。
「ところでシン、どうしてあいつらは良くて俺は無理なんだ」
レイの言葉に、シンがぐっと詰まる。
「れ、レイはその、嫌だろ?だって」
「俺がどうより以前、お前は俺と寝るのは無理だと言ったな。だが部屋はこのままが良いと言う。言っていることが矛盾しているとは思わないのか」
淡々と、それでいて追い込むようなレイの物言いに、シンはがっくりと項垂れた。
「………は…」
「は?」
「…ずかしいからやだ………」
「………」
「………」
「…な、なんか言えよ!」
頬を染めながらそんなことを言われている俺のほうが恥ずかしい、レイは心底そう思ったが、口にも、勿論顔にも出すこともなく、すっくと立ち上がると思い切りシンを見下ろして言った。
「安心しろシン。今日から俺が一緒に寝てやる」
ぽかんと口を開けたまま見上げたシンの目には、もう涙の跡は無かった。呆けたままのシンをそのままにシャワールームに消えたレイは、自動扉の閉まる音とともに聞こえてきた驚愕にも似た悲鳴に肩を揺らして笑った。そして、笑っている自分自身を、不思議と嫌ではないと、そう思った。
「くどい」
ベッドの上でレイと睨み合っていたシンは、ううう、と唇を噛んだ。いや、睨み合うというには程遠いこの状況。前述の台詞は、シンの何度目かの「ホントに?」という問いかけへのわかりやすいレイの答えだ。シンはどうしてレイがあんなことを言い出したのか皆目見当もつかないまま、じりじりとベッドの端へと追い詰められていた。
「俺が一緒に寝てやる」
レイのその言葉に、目が点になるとはこういうことかとシンは実感したのも束の間、あれよあれよと言う間にシャワーから上がってきたレイは手早く濡れた髪を乾かし、当たり前のようにシンのベッドに上がり涼しい顔でシンに「では寝るぞ」と言ってのけたのだ。
シンにとって、レイは聖域だった。
強くて賢くて優しくて美しいレイ。数ヶ月をレイの近くで過ごすうち、シンはレイのようになりたいと、憧れにも似た気持ちを持つようになっていたのだ。そのレイと一緒のベッドで眠るなどという許容範囲を遥かに超えるこの状況に、シンの頭はパンク寸前だった。
「しゃ、シャワー…」
「お前は何度シャワーを浴びるつもりだ」
ぴしゃりと撥ねつけられた。