フリージア・中編
レイはフーッと細く息を吐くと「ならいい」と一言口にして、くるりと背を向けると自分のベッドに腰を下ろし、シンを見ずに言った。
「…シン。これからはあいつらのところに行くな」
「えっ」
「眠れないときは俺が一緒に寝てやるから、他の部屋で眠るなんてことはもうやめろ」
自分のせいで眠れなかったはずのレイが何故そんなことを言い出すのか、シンにはさっぱりわからなかった。寧ろ部屋代えを言い出されるのではないかと思っていたくらいだ。その証拠に、レイはなんだかいつもと少しばかり様子が違うような気がして仕方がない。
シンが返事を出来ずに俯いていると、レイは長い前髪を無造作にかきあげながら、「いいな」と念を押してきた。戸惑いながらも頷いたシンにわかるはずもなかった。
レイのこころに芽生えた、不思議な感情のことなど。
「レイとなんかあったでしょ」
午前最後の射撃の授業。偶然同じボックスに割り当てられたルナマリアに耳元で囁かれたシンはびくりと跳ねた。
「なっ…、なんで!」
思わず過剰に反応したシンに、ルナマリアは満足気に二、三度頷くと、ぐいと顔を近づける。
「最近のシン・アスカを見てるとね、」
「…なんだよ」
もったいぶるようにわざとゆっくりとしたその口調に、シンの眉間に自然と皺が寄ってゆくさまを楽しそうに見ていたルナマリアはふふっと笑った。
「楽しそう」
「はあ?」
楽しそうって何がだよ、幾分唇を尖らせたシンにルナマリアの顔が一層緩む。
「…ついでに言わせてもらうと、レイも楽しそうに見えるのよね」
「レイが?」
レイ、という名前にぱっと表情を変えたシンに、ルナマリアはやれやれと軽い溜息を吐いた。あれ以来、あたしだってそれなりに心配はしていたのだ。
シンが図書館で暴走して以来、ルナマリアは前にも増してシンのことを気にかけるようになっていた。レイには口止めされていたし、勿論シンの口からその時の話など出てくることもなかった。シンの処分やその他諸々、色々聞きたいことはたくさんあったけれど、一緒に居てもどこかピリピリとした緊張感にも似た空気に包まれているような気がして、黙って見ていることしか出来なかったのだ。それがここ最近、シンとレイの間にあった距離が目に見えて縮んでいっているように見える。
(名前ひとつ出したくらいでこんな顔されちゃうとはねえ)
目の前で大きな赤い瞳を見開いてルナマリアの次の言葉を待つシンを見ていると、シンは本当に変わったとつくづく思う。喜怒哀楽が普通に表れるようになった。何に対しても、誰に対してもぼやけた瞳で無反応だったシンと同一人物だとは思えないくらい。
「レイがどうしたっていうんだよ」
早く言えといわんばかりにせっつかれ、どうからかってやろうかと僅かに思案したところで教官に注意を受け、会話は途切れた。
ルナのせいだぞ、と呟くシンに大袈裟に眉を上げて見せたあと、もうこちらを見てはいないレイの背中を見遣って思わず溜息が漏れた。
(保護者みたいなんだからもう)
「そういえば」
濡れた頭をわしわしと拭きながらシャワールームから出てきたシンを床に座らせてドライヤーのスイッチを入れたレイは、まるで今思い出したとでもいうように切り出した。
「最近ルナマリアと仲が良いな」
ドライヤーの温かい風と髪を撫でるレイの手の心地良さに目を閉じてうっとりとしていたシンは、その言葉にルナマリアの言っていたことを思い出しそっと背中を振り返った。
あれ以来レイは言葉どおり嫌な顔ひとつせずシンの隣で眠ってくれていた。初めのうちは緊張と疑問で布団に入ってからもいつもぐるぐると頭を悩ませていたものだが、人というのは良くも悪くも『慣れる』動物なのだと改めて実感せざるを得ない。今こうやって濡れた髪を乾かしてくれることだってよくよく考えてみれば普通ありえないことなんじゃないだろうか。
「…なんだ?」
振り返ってまじまじと見上げてくるシンに、レイはドライヤーのスイッチをかちりと切った。
「レイってほんと優しいなって」
「…俺が優しい?」
「うん、レイはすげえ優しい」
へへっと笑って前に向き直り、すっかり乾いてふわふわになった髪に触れるシンを見つめながら、レイは少しばかり動揺していた。
今まで生きてきてそんなことを言われたことなどなかった。大体『優しい』という感情が何なのかわからない。何を持ってシンが自分を優しいと言うのか全く見当もつかなかった。
「…ルナがさ」
その名前に思考回路がぴくりと反応する。
「俺が楽しそうに見えるって言うんだ」
何か言葉を返そうかとも思ったが、シンは自分に言い聞かせるようにひとり続ける。
「…ルナの言うとおり、俺最近楽しいのかも知れない。授業も、大変だけど前より頑張るぞって凄い思ってる。でさ、それって、きっと…」
くるりと振り返ったシンの赤い瞳に真っ直ぐに見つめられ、レイは心臓がどくんと波打つような感覚に襲われた。
「きっと、レイのお陰なんだ全部。レイがいてくれて、ほんと良かった」
照れたように微笑むシンを、俺はどんな顔で見ていたのだろう。
レイ、なんかヘンな顔してる、と嬉しそうに覗き込んできたシンに、俺はちゃんといつものように声を出せていただろうか。
「…確かに、授業はもっと頑張らないとな。シンは実技と筆記の差が激しすぎる」
レイの言葉にううう、と唇を噛むシンをぼんやりと見つめながら、どくどくと響く心音が聞こえてしまわぬように右手で心臓を押さえた。
シンに出会い、関われば関わってゆくほど今まで知ることのなかった不思議な感情がどんどん自分を支配してゆく。それは時に温かく、そして時に恐ろしかった。そんな時、自分はおかしくなってしまったのではないかと…本当に、そう思うのだ。
心地良い寝息を肩口に受けながら、レイはその男にしては長すぎるシンの睫毛が僅かに震えたことにすぐに気付き、口元で丸まっている手をぎゅっと握る。眉間に軽く皺を寄せたシンに、やはり夢を見ているのかと思うとレイの心臓は何故かちくちくと痛んだ。暫くそうして手を握っていてやると眉間の皺はゆっくりと消え、握ったままのレイの手に口元を寄せたシンは確かにこう呟いたのだ。
「レイ………」
と。
体中の血が一箇所に集中した。どくどくとうるさいくらいに鼓動が響く。まるで何かに呼ばれるかのようにシンの意外に柔らかい猫毛に手を伸ばし、指を差し入れた。そのまま僅かに力を込めると、あっけないほど簡単にシンはレイの首元に収まった。頬を親指の腹でそっと撫でると、ん、と寝言とも吐息ともわからない声がシンの唇から漏れる。目の前にあるシンの瞼に唇を押しつけると瞼の下で眼球がごろごろと動く感触を感じて、寝ている間でもヒトの眼球は動くものなのか…と感心したところではっと我に返った。
(何をしているのだ俺は)
腕の中にすっぽりと納まって寝息をたてているシンを改めて見遣る。寝ているシンに俺は何を………。
(どうかしている)