永遠に失われしもの 第8章
ディンギルテッラホテルの最上階の
スィートルームのバルコニーから、
シエルはスパーニャ広場を
見下ろしていた。
夜にもかかわらず、その広場では、
大道芸人の芸をみる人々や、
露天の店に集まる人々で、
賑わっているようだった。
広場を隔てて、遠くにうっすらと
サンピエトロ寺院の影が見える。
枢機卿の死を知らせる鐘が、
鳴り響いている。
「夜眠れないっていうのは、
暇なものだな」
心地よい夜風に身をさらしながら、
シエルは、
室内でトランクから主の服を取り出し、
ハンガーにかけているセバスチャンに
話しかけた。
「そうかもしれませんね」
さらりと受け流す執事は、昔
伯爵家にいた頃は、夜の間、何をしていたのだろうと、シエルは興味を持つ。
・・こいつのことだから、明日の支度やら
猫に会いに行ったり・・そんなとこだろう
心の中で考えていたことがばれている
かの様に、セバスチャンが微笑みながら
優しい声で言う。
「ぼっちゃんが寝つけない日に、
お話したり、本を読んであげたり--
そうしてお側にいた晩が多くて、
暇とは思いませんでしたよ」
・・そういえば、そうだった。
僕はしょっちゅう悪夢にうなされ、
寝るのが嫌だった・・
いまとなっては、
現実の方が悪夢ではあるけれど・・・
「僕は人間から悪魔になった。
お前は、どうして悪魔なんだ?」
「愚問ですね--
少なくとも、私は人間であったことは
ありませんよ。
振りをすることはあっても--」
遠くをみるような、
それでいてシエルを見つめているような
目をして、しばらく間をあけてから、
セバスチャンが語りはじめた。
「ぼっちゃんは、悪魔が仕事をする空間
いわば、
悪魔が存在する場所をご存知ですか?」
不可解な事を、という顔で、
セバスチャンを見つめるシエル。
「悪魔が悪魔として存在するのは、
それを仮定したときから、
それを忘れるまでの間です。
つまり、
悪魔を欲したり、
悪魔に恐怖を感じたときに生まれ、
悪魔のことを忘れたときに
消滅するのです」
「欲したり
恐怖を感じなければ、
悪魔はいないと?」
「ええ、アグニさんや、使用人たちは
私に恐怖を感じなかったから、
彼らの世界に悪魔はいません」
「ただ単に
有能な執事がいたというだけか。
なるほどな」
「それぐらいの希薄なものです、
存在なんて」
「それでは、あの時僕が強烈に
悪魔を欲したから、
お前が存在することになり、
エットーレ卿やお前に殺された人々は
お前に恐怖したからこそ、
悪魔が彼らの世界に舞い降りたと?」
「その通りです」
何だか丸め込まれたような気がして、それでもシエルにとっては不可解な気がした。
作品名:永遠に失われしもの 第8章 作家名:くろ