永遠に失われしもの 第8章
「悪魔の存在の希薄さ・・・か」
シエルは、バルコニーの石造りの手すりの
ひんやりとした感触を楽しむかのように、
何も力仕事をしたことのないであろう、
その華奢な手をおいた。
仕事を終えたセバスチャンが
窓辺に歩み寄りながら言う。
「ぼっちゃんは
悪魔になられてからの方が、
人間であったことに
誇りを覚えていらっしゃる--
人であったときは、
人間なぞ愚かなものだと
よくおっしゃっていたのに」
シエルは、彼から目を背けていたが、
そこに底意地の悪い微笑が広がってる
だろうことは、容易に想像がついた。
「人間にもなれず、
悪魔にもなりきれず・・
と言いたいのだろう?」
「いえ、そこまでは。
否定されようが、貴方も所詮、悪魔。
魂に惹きつけられ、
契約に縛られるのには、変わりがない」
・・そうだ、僕は悪魔の契約者としての
お前の魂を欲してならない・・
お前が、僕に永遠に仕えるもので、
それが永遠に得られないとわかっていても
そのわずかな残り香を探して・・・
「お前も・・」
「ええ、私も」
--私がこの上なく欲した魂である貴方が
人であったときを思い出すとき、
私もまた、
ありし日の貴方と手の届かない日々に
悔恨の思いを抱きながら、
それでも貴方のうちにある魂に
この身を焼き尽くされても、
触れたいと願う--
まるで誘蛾灯のように--
「お前の大量の血より・・・甘かった」
シエルは劇場でのことを思い起こして、
その刹那の甘美と歓喜を繰り返し
脳内で再現しながら、
誰にいうともなく、呟いた。
「それは、
私の魂を少し
お感じになられたからでしょう」
セバスチャンの白手袋ごしの手が、
夜風にあたり冷え切ったシエルの
冷たい頬を撫でる。
「それを外せ」
セバスチャンは、手袋の中指を
やや乱暴に噛んで引っ張り、
言われたとおり手袋を外した。
そして、手の甲で、
顕になったその黒い爪の甲で、
碧眼の少年の頬をまたゆっくり優しく
撫で始めた。
少年の碧眼は緩やかに、紫を帯び、
ワイン色へと変化していく。
少年は、漆黒の執事の手首をつかんで、
彼を引き寄せた。
長身な執事の大きな暗い影が、
シエルをすっぽり包み込み、
シエルの額に、彼の漆黒の髪が触れる。
「私を喰らうのが、上手くなりましたね」
「今は何も・・言うな」
セバスチャンは口を緊く結んで、
一瞬眉を寄せながら、
下唇を噛み、また己の舌を噛んで
口の中に血の味が広がるのを確かめると、
その冷たい指でシエルの顎に触れ、
軽く掴むように、
くいっと小さな顎を持ち上げると、
その半開きになった唇の間に、
自らの舌をもぐりこませた。
夜の帳が下りた中で、
月明かりだけが
二人を蒼白に照らし出していた。
作品名:永遠に失われしもの 第8章 作家名:くろ