月と金髪
ルフィは両手を上に掲げて「しんすいしき~!」と海に向かって叫んだ。ゾロは笑みを浮かべてルフィの横顔を見る。マストに掲げられた漆黒の海賊旗が、彼の肩越しにはためいている光景は壮観だ。希望と胸騒ぎを集めて光るその瞳に、全てを預けてもいいという気分になる。
「あ、サンジだ」
ルフィの口から漏れたその名前に、ゾロは一気に現実に押し戻されると彼の視線の先を見下ろした。キッチンのドアの前でサンジが両手を顔の前に翳して見張り台を見上げている。金色の頭がきらきらと朝の陽光に照り映えて明るい。
「あいつの髪の毛、光ってて綺麗だ」
感心したようにしみじみと、ルフィは言った。サンジは二人と目が合うと、すぐに腕を下ろしてキッチンのなかに消えていった。
「朝飯かな」
「そうみたいだな。降りようぜ。ナミ達が起きてくる前に帆を張っちまおう」
そう言って毛布を片手に掴み柵に手を掛けたとき、目の前にあるルフィの右手のひとさし指に小さな包帯が巻いてあるのにゾロは気づいた。何となくルフィがそんな小さな包帯を巻いている姿は似合わないと思い、黙って見ていると、
「これ昨日、船の修理手伝ってるときに金槌で思いっきり叩いちまった」
舌をぺろりと出してルフィは言った。
「慣れねぇことするからだろ。痛みはもう引いてるのか?」
「ああ。サンジに舐めてもらったし、すぐ治る」
ししし、と嬉しそうに笑ってルフィは包帯の巻かれた指を日差しに翳した。
「・・・あのコックはそんなサービスもするのかよ」
低い声でゾロが言うと、ルフィはじっとゾロを見つめてにやりと笑った。悪戯に老成した黒い瞳に見透かされたように感じたゾロは、眉を顰めて視線を逸らす。ルフィはそれ以上何も言わずマストを降りていった。
思わず洩らした言葉に軽く舌打ちをして、ゾロは梯子に足を掛けた。
ゾロは格納庫の扉に凭れて座っていた。
穏やかな午後はゾロだけを取り残して、ゆっくりと過ぎ去っていく。
デッキチェアに座ったナミが、紅茶のカップを運んできたサンジを呼びとめ何かを耳元で囁き、サンジは笑ってナミの傍らにしゃがみこんだ。ナミは目の前にあるサンジの髪の毛を一房掴むと、手首に掛けた紐を取ってそれにくるくると結ぶ。ナミが手を離すと、髪の毛を結ばれたサンジが照れたように微笑み、それを傍で見ていたルフィとウソップがゲラゲラと腹を抱えて笑う。サンジはルフィを呼び、今度はナミから預かった紐で彼の髪を結ぼうとしている。甲板には笑い声が途切れない。
ゾロは立ち上がって格納庫の扉を開け、中に入った。
かちゃりと扉を閉じると、薄暗く湿った船室の空気がゾロを包む。外からは賑やかな話声が聞こえてくる。仲間と無邪気にふざけあう。ああいうサンジの姿はもっと見ていたいような気がする。しかしゾロの頭には、月明かりの下で静かに佇んでいた男の面影が消えない。あのまま夜の闇に消え入りそうだと感じた。
そしてやはり危険だと感じる。これ以上覗きこめば、きっと深く吸い込まれそうに底のないサンジという存在。
ゾロの背後で扉が開く音がした。振り返るとサンジが格納庫の中に入ってきた。
一瞬、自分を追いかけてきたのかとありえないことを思う。サンジはゾロの前を横切ると山と詰まれた食糧の木箱の前に立った。屈みこんで一つの箱を引っ張り出し、蓋を開けて何かを確認している。
「お前、ここで何してんの?」
いくつかの箱を引き出しながら視線を合わせずにサンジは言う。
「・・・傷、包帯代えに来た」
そう言ってゾロは、棚から救急道具や薬の入った麻袋を取り出した。そして手近な箱に腰を下ろし袋のなかから包帯と薬を出す。ちらりとサンジを見ると、今度は酒樽の蓋を開けている。何となく落ち着かないので出て行って欲しい、と思いながらゾロは包帯の交換に意識を集中させることに決めた。
バラティエとアーロンパークで負った瀕死の傷は、ココヤシ村の医者に治療してもらったこともありほぼ回復に至りつつあった。塞がりつつある傷口を確認して、先日自分で抜糸も行った。シャツを脱いで、包帯の結び目を解き外していく。包帯を巻くのが面倒でそのままにしていたら白いシャツに血が染みて、それを見たナミにひどく怒られた。それ以来きちんと傷に薬を塗り、ガーゼを当て包帯を巻いている。動きにくいことこの上ないがぎゃあぎゃあナミに怒鳴られることを思えば我慢するしかない。
「もう、治ったのか?」
低い声に顔を上げると、サンジがいつのまにか近くに立ちゾロの手元を覗き込んでいた。頭の上はまだ小さく紐で結わえられたままだ。
「・・・ああ。まだ完全にふさがっちゃいねぇけどな」
「すげぇな。脅威の回復力。真似できない生命力。ゴキブリ並だな」
サンジは顔を上げゾロを見て笑う。ゾロは至近距離に近づいたサンジの白い顔をまじまじと見つめる。金色の睫に縁取られた青い瞳は触れられそうなくらい近くにある。色素が薄いせいで、太陽の下ではほとんど見えない顎の無精髭もよくわかる。サンジはゾロの視線に気まずそうに眉を寄せ、姿勢を起こして髪に結ばれた紐を長い人差し指で解いた。さらりと零れた髪がサンジの表情を隠してしまう。ゾロは再び視線を下げて、包帯をゆっくり解いていった。
「おまえ、んっとに不器用だな。ちょっと貸してみろって」
もたつくゾロの手元に焦れたようにサンジは屈みこむと、ゾロの手から包帯の先を奪ってくるくると器用な仕草で解き始めた。目の前にある金髪の紐が結ばれていた一房に、ぴんと後ろにはねかえるような癖がついている。ゾロは手を伸ばしてそれを整えてやりたい気持ちになる。そうしたらサンジはどんな反応を返すだろうか。
素早く包帯を取り去ったサンジは、傷を覆うガーゼを上から一枚一枚剥がしている。床に肩膝をついたサンジは、まるでゾロの足元に跪いているように見える。こうやって無心に奉仕されるのは落ち着かないものだということをゾロは知る。大して気を許していない他人の足元に跪くなんて行為は、ゾロには決してできない。
「・・・すげぇ傷」
ガーゼを取り終えて、ゾロの傷を目の当たりにしたサンジは声を洩らした。ゾロの鍛え抜かれた筋肉を上下に縦断する傷跡を、ゆっくりと目で辿ったサンジは感嘆を込めた表情を見せる。
「きっと、一生消えねぇな」
「ああ。消えなくていい。鷹の目に負けた悔しさを絶対忘れたくねぇ」
「剣士の意地ってやつか?」
「俺の意地だ。傷口が痛み続けるぐらいが丁度いいさ」
「マゾかよ。理解できねぇぜ」
「てめぇに理解してもらおうとは思わねぇよ」
ゾロの言葉に目線を上げたサンジは口の端を上げて笑うと、傷口を再び見つめ、そっと ゾロの胸に左手を置いた。そしてそのまま顔を寄せ、唇で傷に触れた。その行為よりも、触れた唇の冷たさに驚いてゾロはびくりと腹筋を揺らした。
「・・・怪我がはやく治るおまじない。知らねぇ?」
ゾロは首を振る。上目遣いでゾロに尋ねるサンジの髪に触れたい、とまた思う。