テニスlog
幸か不幸か、はたまた何の因果か。
偶然にも昼休みの中庭に、青学レギュラーメンバーが揃うという可笑しな事態が起こった。
それだけでも眉を顰める出来事なのに、更に追い討ちを掛けるかの様に皆輪になって、和気藹々と弁当を広げ食事を始めた。誰もそんな事を仄めかしたりはしていないというのに。
何の約束事も取り付けていないのに、この以心伝心っぷりは如何なものだろうと、不二は溜息もそこそこに空を仰ぎ見た。
広大な天の君臨者は、我関せずと、青く薄く、どこまでも澄み切っていた。
色々思うところはあるけれど、考えない方が良さそうだ。そう思うが早いか不二はすぐさま思考を切り替えた。
「猫じゃらし」
唐突に何気なく呟かれた言葉に、周りに居た者は不思議そうな顔をした。
彼は時々、意味不明な事をポツリと呟く。
無意識なのか否かは定かではないが、本当に時折、そういう事が間々有る。決まってそういう時の彼は視線は虚ろで、思考は正に夢と現とを行き来しているかの様な状態だ。
けれども誰もがその何気なく吐かれた言葉に反応し、理解しようと頭を捻らせる。
それは彼の常の人柄の所為であり、そしてその時の彼の状態がああにも関らず、瞳だけは確りと何かを捕らえ、光を灯している所為でも有る。
そんなこんなで先程彼が言った言葉について、何事かと各自思い思いに思考を飛ばした。
そうして暫く経った頃、誰かが「花壇がある」と嘯いた。成る程、菊丸の視線の先には花壇が見える。
しかしながら如何せん、菊丸は虚ろな視線をそちらの方向へ向けているだけなので、本当に其処を見ているのかは本人にしか分からない。けれどこの状態の菊丸に逐一確かめるのも憚れるので ――唯一それが出来る人物(不二の事だ)が居るには居るが、彼は今回の件に関しては無関心を決め込んでいる――取りあえず、其の場所へ行ってみようという事になった。
皆暇なんだね、という穏やかな声が遠くで聞こえた様な気がしたが、敢えて誰も触れなかった。正確には、相手をすれば打ち負かされるのが目に見えているので、誰しもが聞こえない振りをした、といった感じなのだが。
花壇に辿り着くと、其処は少しばかりの雑草がぽつりぽつりと蔓延っていた。
全盛期を無事に終え、青々と茂った葉が徐々に勢いを失くし、これから少しずつ次の春を迎える為に下準備を始める頃。何処からか風に乗って遣って来た種子が根をはり、何時の間にやらスクスクと成長し、この状態になった様だ。
そういえば用務員の誰かがそんな事を言っていた様な気がする。好い加減草むしりをしないと、花が育たなくなる、と。今更ながらそんな事を思い出して、乾は微かに苦笑した。
「猫じゃらしがある」
そんな思考を断ち切る様に、越前が凛とした声音で空間を震わせた。
確かに其処の一角は、猫じゃらしの群生で溢れていた。よくもまあ、あの距離で見極められたものだと全員が全員、呆れたような、それでいて何処か尊敬の混じる吐息でもって其れに答えた。
各々が感想を口に出し――乾に至ってはノートを取り出して、何やら熱心に書き込んでいる始末だ――彼の動体視力は矢張り並外れたものだと納得していた所。不二だけは妙な気分に晒されていた。
何かが欠けている訳でも、足らない訳でも無い。寧ろ彼らがとった行動、結論は至極最もなもので、自然に導き出された様なものである。何ら不自然では無いし、異を唱えるつもりの無い。
けれどもこの奇妙な感覚は消え失せてくれそうには無かった。寧ろ時間が経つにつれ色濃くなっていく気配すら見せた。はて、どういう事だろうと、今の今まで傍観を決め込んでいた不二は頭を捻らせる。
何かが噛み合わない。無理やり型に押し込みピースを合わせたパズルの様に、何処かチグハグだ。
そもそもこういう状態の菊丸を相手にするなど馬鹿げている。ああ見えて菊丸は大層複雑な思考の持ち主で、それを理解するまでに結構な時間を要する等とは、この連中はこれっぽっちも考えてもみないのだ。薄く張り付いた笑顔の仮面の下で、不二はそう毒吐く。
零れた言葉が単純だからといって、その時彼が考えていた事までもが明解なものだとは限らない。不二は其れを何度も直に見てきたので良く知っている。
例えばボーっとしている菊丸に話し掛けて、手酷く追い返されたと後輩の桃城が話していて事がある。多分其の時の菊丸は、表情こそ何も考えて無さそうなアホ面だったに違いないが、頭では柄にもなく何故自分はこの場所に居るのだろうかとか、幾ら考えても答えの出ない、とりとめも無い哲学的な事を思案していたのだろう。しかしながらその逆もある。ボーっとしたアホ面で、矢張り阿呆な事を考えているのだ。
その辺の違いは長年の付き合いがある者か、彼を良く観察した者でなければ分からない。早い話、彼と深く付き合ってみなければ理解は出来ないのだ。
そこまで思考を巡らせて、矢張り莫迦らしいと思い立った不二は考えるのを止めた。切り替えが早いのは自分の美点だと心底思う。
隣を見れば皆に釣られて何となく遣って来たと言わんばかりの菊丸の姿が目に入る。何故そんな大騒ぎになっているのか分からないと言った表情に、ああ矢張りハズレか、と冷静に分析する。
けれどもそんなつまらぬ余興に一々付き合ってられる程自分は優しくも無いし、一度切った思考を呼び覚ますのも面倒臭い。不二は溜息を一つだけ溢し、天を仰いだ。
穢れ無き澄み切った青空を見れば、少しは心が洗われる――落ち着くかと思ったのだ。それが誤算だとも知らずに。
「猫じゃらし」
不二は呟いた。心の中で。
澄み切った空の中に、白く掠れた猫じゃらしが一本ポツンとあった。色も然る事ながら、その大きさたるや。規格外も良い所だ。
成る程此れを見ていたのかと、今更ながらにして思う。視線の先は丁度花壇と一致して、彼らが間違うのも無理は無い。其処に本物の猫じゃらしが有ったのなら、尚も当然。
どうやら今回の彼は阿呆な顔で阿呆な事を考えていた様だ。人騒がせなと思いつつも何処か憎めない彼に溜息を漏らし、それにしても見事な猫じゃらしだなあと、空を見上げる。
他のメンバーを視界の隅で捕らえると、まだ興奮冷めやらぬのか、ああでもないこうでもないと皆が皆口を吐いて、乾は未だにノートにペンを走らせている。
余りの滑稽さに終には吹き出してしまい、肩を震わせ不二は笑った。腹が捩れる程笑うのは久々だと頭の隅で冷静に分析するものの、感情の方が勝った様で、彼にしては至極珍しく、本当に珍しく大声で笑い倒していた。
そんな不二を何事かと不思議そうな顔で、或いは頭がイカレたのかと訝しげに伺い見る仲間達を垣間見て、益々不二は笑みを濃くした。
菊丸の難解な思考回路を理解出来るのは今の所自分だけだと、少しの優越感に浸りながら。
end.