そして愛に至る
舌打ちして、サンドイッチのパンを切ることに集中しようとする。
こんなこと今までに何回もあったことだ。第一サンジ自身、一人寝が寂しい夜は何度か船を降りた経験がある。金で娼婦を買うのはサンジの好むところではなかったので、一夜限りの甘い恋の駆け引きを楽しむために、相手を探して大通りを何度も往復した情けない思い出だってある。
サンジがこの船に乗ったばかりのとき、甘い香水の臭いをぷんぷんさせて朝食の席に遅れてきたゾロをナミがからかったことがあった。ゾロは憮然とした様子でバスルームに向かった。その後姿を見つめていたサンジの胸をちくりと刺した痛みの意味をわかりたくないと思うほどに、焦燥は募った。
「そもそも何で俺がこんなこと気にしなきゃなんねぇんだ」
サンジはそう呟く。ゾロと自分は別に恋人同士というわけではない。セックスはしているが、それは他に性欲処理がない船上生活での手っ取り早い発散方法という意味合いが強いとサンジは思っている。
ゾロと体を重ねることが増えるにつれて、前戯に時間をかけるようになったり、達する時に名前を呼ばれたり、終わった後の朦朧とした意識の中で後始末をされたり、というようなことは確かに珍しくはなくなった。抱きあえばそれなりに穏やかな時間が二人の間には流れる。それでもサンジがゾロから何か言葉を欲しいなどと殊勝なことを望んだことはない。そういうことを求めているわけでは断じてないと思う。今夜もゾロ達がナミに心配をかけていることや、抜け駆けをしていい思いをしに行ったことに腹を立てているという部分も大いにある。でもなぜか釈然としない感情がサンジのなかで蟠っている。
ゾロはどうやって女を抱くのだろう。
そう考えるサンジの頭にはカッと血が上り、思わず右手に持った包丁を取り落としてしまう。からんと乾いた音を立てて、パン切り包丁はステンレスのシンクに転がる。
女の服を乱暴に脱がしてベッドに倒して、白い肌に節くれだった指を這わして。ゾロが乱暴に突き上げる度に女の赤い唇が快楽に歪む。ゾロの落とした汗が女の長い髪を濡らす。
気まぐれに優しい口づけを、ゾロは女に与えるだろうか。
女の柔らかい腕に包まれて、今夜ゾロは眠るのだろう。見飽きたゾロの寝顔も、同じベッドの中で、近くで見たら違って見えるのかもしれない。
自分で立てた誓いに命を賭ける男に「約束」をさせることをサンジは恐れている。世界を駆け抜ける一陣の風を拘えることなどできない。不確実な存在感を求めて空に手を伸ばすこともしたくない。
だからこれ以上何も望まない。
サンジは眠れぬ夜を過ごした。
早朝、徹夜の視界には眩しすぎる太陽を東の空に見つめながら、サンジは甲板で昨夜から35本目の煙草を吸っていた。
さすがに旨みも何もなくなった煙に目をしかめ港の方を振り返ると、桟橋を歩いて船に向かってくる三つの影が朝靄のなかに見えた。無断外泊をした3人が帰ってきたのだ。
「おーい、ナミ。梯子を下ろしてくれ!」と船長は悪びれない声で船尾から3人を見下ろしているナミに向かって叫ぶ。案の定下ろした梯子から飛び下りた航海士は、揃って朝帰りをした3人をこっぴどく叱り始めた。
サンジは甲板の柵に凭れてその様子を見ながら、一晩中、潮風にさらされて艶を無くした髪を掻きあげる。
ゾロがいる。視線をそらしてナミの小言をだるそうに聞いていたゾロがぼそりと言葉を洩らし、それを聞いたナミに思い切り頭を殴られた。
「ざまあみろ」
サンジは苦い煙を朝の空気に吐き出した。
朝食後、仮眠をとったサンジがキッチンに戻ると、ウソップがキッチンの床に座り込んで作業をしていた。足元には彼の愛用の工具が広げられている。右手に小型の金属性の発明品らしきものを持って、スパナで金具のネジをいじっている。
「お前、俺の神聖な職場で何してんだよ」
サンジは軽く靴の先で狙撃手の背中を蹴った。
「いってぇ。仕方ねぇだろ。昨日島で手に入れた道具使ってこれ完成させたかったのに、倉庫の扉の前にはナミがすげぇ怖い顔で居座ってるし、甲板は今日風が強いしよ。見ろよ。このスパナのおかげで、俺様の偉大な発明がまたひとつ誕生しようとしてるんだぞ。これがまたすげぇんだよ。あのな、何がすごいかってゆうとだな・・って聞けよ!」
「ああ、うっせぇ。俺は昨日寝てねぇんだよ」
そう言ってサンジは椅子に腰を下ろした。
「・・・ほう。浮気亭主を寝ずに待ってたってわけだ」
「てめぇ、ぶっ殺す」
そう凄んで、腰を上げたサンジにウソップは「暴力反対」と情けない声を出しながら顔のまえに左右の掌を広げた。
「別に、俺はあのマリモがどこに行こうと誰と寝ようと朝帰りしようとこれっぽっちも心乱されねぇよ。むしろせえせえするんだよ。あの動物のお相手するレディには同情するけどな」
「・・・本気で言ってんのか?」
声音を抑えて、低い声で問い返したウソップの顔をしばらく見つめサンジはどすん、と再び椅子に座った。イライラした仕草でポケットから煙草を取り出す。そしてケースが空なことを知って舌打ちをしながら床を蹴った。
「素直じゃねぇな。たいがいお前も」
一言溜息と共にウソップは言い、足元に転がった発明品に目をやると続きを諦めて片付けを始めた。
「あいつ、昨日女とは寝てないぜ」
ウソップは手を動かしながら、ちらりと横目でサンジを見上げる。サンジは不貞腐れた体でテーブルに突っ伏したままだ。
こんな風に、この意地っ張りのコックが弱味を見せるという特権を、ウソップは何故か与えられている。
ゾロとの関係に早くから気づいていた彼がサンジを問い詰めたとき、「どうせ、こんなくだらないことあいつはすぐ飽きる」と言い捨てたサンジの青い目が暗く曇っていたことを思い出す。今朝のサンジの瞳も同じような感情の澱を溜めている。ゾロが朝帰りしたという事実だけではなく、心の隅に無音で降り積もっていた埃の存在に昨夜始めて気づいたのだろう。
自分が持つ生々しい感情に率直に向き合うということからサンジは逃げている。
ウソップは静かにそう思った。
「3人で街へ出てよ。まあ、それぞれ楽しくやるつもりだったよ。この島のお姉ちゃんたちがまた可愛くてよ。揃いも揃って色白で美人なんだ。まあ俺は少し日に焼けた健康そうな女の子のほうが好みといやあ好みだけどな。それでみんな陽気でサービス精神旺盛なわけ。俺達みたいなよそものにもそりゃあ優しいのなんのって。俺もいい気分でアバンチュールの予感に心躍らせてたのに、突然あいつが気分じゃねぇとか言い出してよ。船に戻るとか言い出す始末さ。あいつだって最初は乗り気だったくせによォ。もう興ざめだったね。それで仕方なくむさ苦しい男3人で酒場で朝まで飲んでたってわけ。まあルフィはもともと性欲より食欲だからどうでもいいみたいだったけど、付き合わされた俺の気持ちにもなれっての」
サンジはウソップの言葉を聞いているのかいないのか、顔を伏せたままなので感情を読み取ることができない。仕方なくたたみかけるように慰めの言葉を紡ぐしかない。