そして愛に至る
ゾロはそう呟いた。チョッパーは空になった皿を持つと「サンジにお礼言ってくる」と言って立ち上がった。そして、数歩行ったところで振り返った。
「おい、俺チビじゃないぞ!」
「・・・ああ。わかってるよ」
ゾロはぱたぱたと足音をたて、甲板をキッチンの方に走っていく小さな後姿を見送った。
コックに必要なのは例えば彼らのような仲間達なのだ、とゾロは思う。
胸に癒えない傷を抱えたまま前を見て笑う仲間達。彼らが喜ぶ顔を見ることが何時だって彼の心を満たすのだろう。
でも、彼の心の底にある暗い感情の澱に触れることはできない。誰にも。ゾロの心の奥にも触れられない場所があるのと同様に。破片を掴んだと思っても、砂浜の砂のように次の瞬間には指の間から零れ落ちていく。
剣士は孤独な存在だと、ゾロに教えてくれた人がいた。故郷の島にいたある老剣士。自分もまた世界一を目指したことがあるのだとゾロに聞かせてくれた人だった。その意味が今はわかる。他者を求めることが高みを目指すことの足枷になるのだというなら、その罪を甘んじて受けなければならない。それでもゾロは、一握の砂を掴むために手を伸ばすことをやめない。
サンジの手に触れたい。人より冷たいあの指に自分の体温を移したい。
強く思ったゾロの体の上を、鮮やかな風が通り過ぎていった。
サンジは見張り台に繋がる梯子を登っていた。
昼食の席に姿を見せなかった男のために、サンドイッチの入った袋を肩からぶらさげて、一段一段踏みしめるように上を目指す。少しずつ高くなる視界の右下には島が広がっている。午後の落ち着きのなかにある港や先に広がる小さな街。同じ色彩をした屋根が寄り添うように建っていて、いく筋かの細い煙が昇っている。その下には土に足をつけて生活する暮らしがある。
そういうのもいいのかもしれないな、とサンジはふと思う。陸の上に小さな店を持って、その町や島で暮らす人々のために料理を作る。毎朝、市場にでかけて旬の材料を仕入れたり、顔なじみの客の好みをすっかり覚えたりして。心躍る冒険がなくても穏やかな日常がある。自分自身の不確実な運命を呪ったり、大切な人を失うことに怯えることもないのかもしれない。
あと少しで見張り台の柵に手が届く、という場所でサンジは振り返って東に広がる海に目を向ける。波は今日、どこまでも凪いでいる。
サンジは最後の数段を勢いよく駆け上がった。
見張り台の上では、男が頭の下に手を組んだ仰向けの姿勢で横たわっていた。
「おい、起きろ」
サンジがゾロの肩のあたりを蹴る前に、ゾロは片目を開けた。
「何だ、起きてたのかよ」
「ああ」
「お前、朝からなんも食ってないだろ。昼食持ってきてやったぞ。食えよ」
サンジはゾロの横に袋を置いた。ゾロは体を起こすとそれをじっと見つめている。
「どこにもいねぇから、探したんだぜ。こんなとこで何してたんだよ」
「・・・考えごとだ」
やはり一点を見つめたままぼそりと呟く彼らしくない言葉にサンジは笑い、ゾロの横にしゃがみこんだ。
「はは。お前でも考えごとなんかすんのかよ」
「うるせぇ」
「はいはい。まあその考えごととやらが済んだら、それ食えよ。じゃあな」
「待てよ」
立ち上がろうとするサンジの右腕を、ゾロが掴む。その表情や腕にこめられた力に、サンジはいつもと違う雰囲気を感じとる。
「何だよ」
問い返してもゾロは答えない。二人の間に奇妙な沈黙が落ちる。
見張り台の近くをかすめるように飛んだ水鳥にサンジが視線を奪われたとき、突然視界が揺れた。
ゾロが掴んだサンジの腕を強い力で引き寄せた。バランスを崩したサンジは座るゾロの膝の上に半身を預けるような姿勢で倒れこんだ。そのまま体に廻された腕に固く抱きしめられる。
その体勢で、また沈黙が続く。ゾロの胸のあたりに顔を押し付けているサンジは彼の表情を窺うことができない。
「なんだよ、急に」
「・・・ずっとお前のこと、考えてた。そしたらタイミングよく顔見せやがるから」
「から、なんだよ」
ゾロは答えない。彼なりに言葉を続けたくてもできないのだろう。そう理解してサンジは微笑んで自分を抱きしめる不器用な男の背中に両腕を廻した。
「髪、甘ぇ匂いがする」
サンジの髪に顔を寄せて、ゾロはぼそりと言う。
「ああ、さっきチョッパーにケーキ焼いてやってたから。お前は甘い物嫌いだろ?」
「おう」
「腹減ったのか?」
「・・・減った」
「はは。じゃあとりあえず俺のスペシャルサンドイッチ食えよ。クソうめぇぞ」
「ああ」
ゾロはゆっくりとサンジを抱く腕を緩める。でも何となく名残惜しそうにサンジの頭を両手で挟むと、彼の青い瞳を覗き込んだ。
「ちっちぇえ頭」
そう言って顔を傾け、サンジの唇に触れるだけのキスをする。
「・・・倉庫行くか?」
息が触れる距離で、ゾロの瞳を見上げながらサンジは言う。ゾロは少し視線をそらして首を振った。
「やりたくねぇの?」
「いや。どっちかというと・・・」
「どっちかというと?」
「今すぐにでもしてぇ」
「じゃあ、行こうぜ。昼間からここはさすがにまずいだろ」
覗き込む青は少し潤んでいる。サンジの掌がすっと、ゾロの背中を辿る。
「・・・なんつうか、このままやっちまうっていうのは、嫌だ」
「んだよ、今さら。ムードがないって?どこのレディだよ」
サンジは不機嫌そうにそう言うと、背中にあった右手を下ろしてゾロの腰のあたりに置いた。そのまま前に進もうとした手の動きを制するようにゾロの手がすばやく重ねられる。目線を上げてその真意を問うサンジに、ひとつ息を吐いてからゾロは言った。
「明るい部屋の真っ白いシーツの上で、お前を見てぇんだよ」
そしてまたサンジの頭を右手で自分の胸に押し付ける。
「・・・お前って、ときどきすごいこと言うよな」
「そうか?」
「ああ。天然のタラシだな」
「とにかく、いつもみてぇに暗い倉庫で時間とか他の奴らの目を気にしてとか今は嫌だ。だからやりたいがやらねぇ。それに、こうしてるだけでもわりと気分いいし」
ゾロの胸が、彼の戸惑いがちな声を響かせている。サンジはきゅっと広い背中にもう一度手を廻す。見張り台を一陣の風が吹き抜ける。二人の髪を、服を揺らす。
そうしていると此処は、まるで世界から切り離された、閉じられた場所のようだった。 空の青は深海のブルー、頬にあたる風は波。海の底に二人きりでいるような錯覚に思わずサンジは溺れそうになる。
「・・・お前と会ったばっかりの頃さ、しゃべんねぇし寄ると触ると喧嘩だし一日中寝てやがるし俺のクソうまい料理食っても美味しいの一言も言いやがらねぇし、何てむかつく奴だろうって思ったよ。正直苦手だった。ほんと言うとさ、お前の野望とかルフィとの固い絆とかってやつに嫉妬してたってのもあるけどよ。俺ってこんなだし、お前みたいにひたむきに自分の道を突き進んでいくことなんてできねぇから」