水の器 鋼の翼2
2.
――あ、まただ。
つんざくような風鳴りとざわめき。それは轟々と空間を揺るがし、レクスの身体をすり抜けて行く。風鳴りとざわめきはしばらくして止むが、止んだ後レクスは毎回酷いめまいに襲われた。
道の真ん中で倒れるのは非常にまずい。急いで、近くにあった廃墟の外壁に背を預け、レクスは額を押さえた。頭が痛い。目の前がくらくらする。うるさい。うるさい。うるさい。
やっとのことでめまいを振り払うレクス。彼の耳に、いつもの騒がしさが戻って来た。騒がしいのは昔からあまり好きではなかったが、あのうるささに比べたら何十倍もましである。
レクスは、暗澹とした表情になった。あの空間の揺らぎがもたらすのは、ひどい頭痛とめまいだけではない。
「次は、……どの記憶が狂っているのやら……」
住み家に戻ったら、早速やりたいことがあったのに。これではまた先延ばしだ。レクスは残念そうにつぶやいた。
モーメントの暴走――ゼロ・リバースから既に二年が経過していた。レクスの記憶がまだ正しければ。
サテライトの西側は、大きな工場がいくつも建ち並んでいる。シティから来たゴミを分別してリサイクルし、再生資源をシティに送り返す工場。様々な薬品を合成する化学工場、などなど。レクスはそれらの工場で働き、日々の糧を得ていた。幸いにも、レクスの器用さが勤め先で高く買われたおかげで、レクスは一般のサテライト住人より僅かにいい待遇で雇われていた。
科学者時代に着ていた白衣とスーツは、とうの昔に捨てた。今のレクスの恰好は、袖が破れたシャツにレザーパンツ。見かけだけなら、そこらにいるごろつき共と見分けがつかない。加えて、二年間の苦難は、レクスの心身を大きく変えた。お人よしだと他人からよく言われていた性格は、無愛想で疑り深い性格へと変化した。外見も、他のサテライト住人と争う内にたくましく、がっしりとした体格へとなっていった。このがっしりとした体格は、流石あのルドガー・ゴドウィンの弟だというところか。今となっては、レクスはあまり嬉しくない。
もし以前の知り合いが今のレクスを見ても、それがレクスだとは誰も思わないに違いない。もっとも、ここにはレクスと親しい人間はいないのだが。そう、誰一人としていないのだ。あの日第一号モーメント研究所にいた人間は、全員が行方不明のままだ。不動夫妻も、その息子の遊星までもがゼロ・リバースに飲み込まれ、消えてしまった。
ルドガーは……果たしてあれは、兄本人だったのだろうか。あの時振り向いていたらすぐに分かったことだったが、レクスの本能が、振り向くことを断固として拒否していた。あの時の判断は、決して間違っていなかったとレクスは確信している。だが、心の奥底で相反する意思もあったのも事実だ。このまま振り向いて彼の手を取ってしまいたいという、どこかほの暗く甘美な意思が。
レクスの隠れ家は、大通りを脇にそれた先にある小さな廃ビルの地下室にある。奥まった場所にあるこの隠れ家は、セキュリティの目もある程度ごまかせる。
この地下室は、入口と通気口を除いては日光が全く入ってこない。灯りがないと、本当に真っ暗闇だ。
レクスは、入口のスイッチをぱちりと押した。薄暗い電球の灯りが、部屋をおぼろげに照らす。照明など、生活の必要な分の電気は、周辺の工場から拝借している。これがセキュリティにばれたら、確実にマーカーものだ。
灯りが付いてまず真っ先に目につくのは、部屋の壁面に綴られた文字の羅列。黒い油性ペンで書かれたそれは、事細かくびっしりと四つの壁面を覆っている。ある一面などは、元々白かったのが黒い文字に埋めつくされてほとんど真っ黒になってしまっている。
その中の一面に、レクスはつかつかと歩み寄る。僅かな光を頼りに、壁面の文字を確認する。そこには、レクスが見聞きしたあらゆる情報が、時系列に沿って記されていた。メモ用紙は、このサテライトでは入手するのが困難だ。なので、この壁がメモ用紙の代わりだ。
レクスの勤め先の工場の情報。サテライトで知り合った人間の名前。今自分が取り組んでいる作業。ところどころに、レクスの日々の愚痴も走り書きされている。『腹いっぱい食べたい』という文面を指でなぞり、レクスは苦笑した。
目的のメモの一つは何とか見つかった。顔見知りの人間の名前の個所。ここに、「レクスの見覚えのない名前」が数人追加されている。覚えている限りの記憶を思い返してみても、その数人には会ったことも話しかけたこともない。
とりあえず、とレクスは一息ついた。とりあえず、ここに書かれている人間が、レクスの今の知り合いらしい。
あの風鳴りとざわめきが通り過ぎた後は、決まってレクスの記憶に狂いが生じる。レクスが覚えていることと、実際の環境に認識のずれができる。
今のように、見覚えのない人間がレクスの知り合いになっていたり。逆に、昨日までそこにいた人間が次の日急にいなくなったり。勤め先だった工場が、たったの数時間で更地になっていた時には、レクスはしばし途方に暮れたものだった。
覚えている限りの事項をメモに書き綴って記憶しようとしても無駄だった。何せ、メモ自体が覚えていることと全く違う内容に書き変わってしまうのだ。しかも、メモの方が正しいときている。だから、レクスは自分の記憶をあまり信用しなくなった。ことあるごとにメモを確認し、メモの通りに動くことで何とか正常に生きながらえていた。
サテライトという異常な環境に置かれて、神経が参ってしまっているのだろう。レクスはこの状況をそう結論付けた。
レクスは、もう一つ目当てのメモを探す。これはすぐに見つかった。ぼろ布で覆いをかけた機材のすぐ傍。
『D-ホイール。モーメントエンジンの搭載に成功』
「――よかった。これは狂っていない」
レクスは、ほっと胸を撫で下ろし、覆いのぼろ布を引いた。中からは、作りかけのD-ホイールが現れた。これともう一つだけが、レクスを正気に繋ぎ止めてくれる大事な導なのだ。
工場で働く合間を縫って、レクスは自分用のD-ホイールを制作していた。形状は、ゴミ捨て場で発見した壊れたD-ホイールをベースにしている。従来のホイールと異なるのは、その中身だ。レクスはこれに、自らの手で開発したモーメントエンジンを組み込んだ。これで、ガソリン等の燃料に依存しなくて済む。
モーメント自体は、レアメタルをあまり必要としない構造だ。なので、この劣悪な環境でも努力すればそれなりの品ができあがる。ただ、駆動部分に問題があって、計算通りの高出力が思うように出せなかった。本来なら、時速二百キロを遥かに超えるスピードで走行できるはずなのだが……。駆動部の材質については、もう少し検討が必要だ。
「私たちの、夢……」
モーメントの小型化やモーメントエンジンの開発。第一号モーメントがうまく稼働していれば、追ってMIDSで実行されたはずの計画だった。この計画が成功した暁には、ドミノシティの完全モーメント化に着手する予定だった。