水の器 鋼の翼2
3.
レクスの眼前に広がるのは、鬱蒼とした雑木林。耳を澄ませば、小鳥のさえずりさえも聞こえてくる。一つの小さな楽園が、ここに存在していた。感嘆の声が、レクスの口から思わず漏れた。
「サテライトに、まだこんな自然が残っていたんだな」
見渡す限り、瓦礫と廃墟と工場しかないサテライト。そんな地獄のような島で、ここだけが別世界として切り取られていた。サテライトを分断する峡谷付近に、こんな穴場があったとは。レクスがD-ホイールの材料を求めて遠出していなければ、ここにたどり着くことはなかっただろう。
どこからか、小鳥のさえずりに混じって、子どもの声が微かにレクスの耳に届いた。一人ではない、複数の。
レクスはその声に誘われて、雑木林に足を踏み込んだ。
雑木林の最後の茂みを抜けると、レクスは開けた場所に出た。運動場のような広い庭に、赤い屋根の煉瓦造りの家が一軒建っている。見る人に郷愁を思い起こさせる光景だった。
庭では、二人の小さな子どもが、ボールを投げ合って遊んでいた。一人は金髪、もう一人は黒髪の子どもだ。彼らは、ぽこんと弾むボールを、楽しそうに追っている。外界の殺伐とした雰囲気はどこへやら、ここにはほのぼのとした空気で満ちていた。
見たところ、ここにごろつき共はいないようだが……。レクスは疑問に感じた。サテライトでは、いい条件の廃墟は奪い合いになるのが普通。苦労して手に入れた住み家も、より強い人間に奪われるのなんて日常茶飯事だ。腕力も頭脳もない弱者は、ほとんど壁のない廃墟すらも得ることはできない。それなのに、こんないい条件の建物が、ごろつきに侵略されずに残っているとは。
木陰に隠れて、レクスは子どもたちの遊ぶ様子を眺めていた。D-ホイールの材料探しに戻る前に、もう少しこの光景を見ていたかったのだ。しばらく見ていると、黒髪の子どもの顔がこちらを向いた。
「……!」
――不動博士!?
危うく叫び出しそうになるのを何とかこらえて、レクスは茂みの中にしゃがみ込んだ。レクスの足は、あまりの驚愕に未だがくがく震えている。
間違いない。あの特徴的な跳ね髪。ここからでも分かる彼の顔立ち。まさか、不動博士が子どもの姿になって蘇ってきたのか。
レクスは、そっと茂みから頭を出してみる。幸い、子どもたちはレクスの存在に気づいていなかった。
驚愕が去った後、何とか冷静に考えようとするレクス。あの日、シェルターには自分以外に誰もいなかった。深手を負った不動博士が、速やかに研究所から脱出するのは不可能だ。不動博士は、不動夫人と同じくモーメントと運命を共にしたと考えていい。
そうなると。もう一つの可能性がレクスの頭に浮かびあがる。不動博士の姿形を受け継ぐであろう、この世でただ一人の人間のこと。
「じゃ、あれはもしかして、遊星君か」
レクスが遊星について覚えていたのは、ほんの小さな赤ん坊の姿まで。彼もゼロ・リバースに巻き込まれて命を落としたものと思っていた。赤ん坊があのまま爆心地で生きていられるはずがないから、恐らく、不動夫妻のどちらかが我が子を研究所から脱出させたのだろう。
とにかく、あの研究所で生きている人間が自分以外にもう一人いた。レクスの心に喜びがこみ上げてくる。
「あっ」
遊星と思しき子どもの声が短く聞こえた。次いで、ぽんぽんと弾むボールの音が、レクスの元へと近づいて来る。ころころと茂みの陰に転がってきたボールを、レクスはひょいっと拾い上げた。
手に取ったボールは、ところどころ継ぎはぎができていた。中の空気もそれほど詰まっておらず、ボールはレクスの手の中で容易にへこむ。はっきり言ってぼろぼろだ。こんながらくたでどうして子どもたちは楽しく遊べたのか、レクスには不思議でならなかった。
さて、このボールをどうしよう。こちらに転がってきたものだから、つい手に取ってしまったけれど。レクスが考えあぐねていた時、がさがさっと茂みをかき分けて、黒髪の子どもがレクスの前に現れた。
子どもはボールを見つけて晴れやかな顔を一瞬したが、即座に表情が強張った。無理もない。探していたボールは、知らない男の手の中にあるのだから。レクスの方も、ボールをどうやって返そうか対応に困った。
最初に口を開いたのは、子どもの方だった。
「ボール、かえして」
そうだよな、とレクスは微かに笑う。こんな継ぎはぎだらけのボールでも、子どもたちにとっては大事な遊び道具なのだ。
「ごめんよ。君たちのボールを取るつもりは全くなかったんだ。ほら」
レクスがボールを子どもの手に渡してやると、
「ありがと」
礼を言って受け取った彼の顔から笑みがこぼれた。まだ警戒していて逃げ腰になっているが、その笑顔はレクスに懐かしい人を思い出させた。
『ありがとう、レクス』
不動博士が研究の最中にレクスに見せた笑顔が、子どもの笑顔と被さる。間違いない、とレクスは確信した。
「君は、不動、遊星君かい?」
子どもは目を瞬かせると、こっくりとうなずいた。
こうして近くでよく見ると、不動博士にほとんど生き写しだ。博士と違うのは、跳ねた髪に走る金色の筋と、星空のような青い瞳。青い瞳は、不動夫人と同じ色だっただろうか。
遊星の着ている子ども服は、布地があちこち破れていた。先ほどのボールと似たり寄ったりだ。この家のほのぼのとした空気に隠れているが、遊星もまた、悲惨な暮らしをサテライトで強いられてきたのだ。彼もまた、レクスと同様、MIDSの隠ぺい工作に巻き込まれてしまった人間。世が世なら、彼は科学者夫婦の息子として、街で裕福に暮らせたはずだった。あのゼロ・リバースが、彼の運命を大きく変えてしまったのだ。
――私は、この子をどうしたい?
レクスは迷った。このまま遊星をここから連れ出すのか。この楽園から、レクスの住む地獄まで。
遊星はレクスと同じ、研究所の生き残りだ。レクスにとって遊星は、この先、心の拠りどころになり得る存在だった。だが、遊星はレクスのことを何一つ覚えていない。
相手が何もしてこないので、遊星は警戒を解いたようだった。さっきまでの緊張とは打って変わって、物怖じせずにレクスに近づいて来る。
突然、茂みから小さな黒い影が勢いよく飛び出してきた。
「ゆうせい!」
「じゃっく!」
黒い影の正体は、遊星と遊んでいた金髪の子どもだった。遊星がボールを探しに行ったまま、いつまで経っても戻らないので、心配になって探しに来たのだろう。
遊星からジャックと呼ばれたその金髪の子どもは、レクスの姿を認めると、遊星を乱暴に引っ張り寄せた。ジャックは両腕を大きく広げ、遊星をその背にかばう。弾みで、ジャックの両前腕が外気に剥き出しになった。持てる全ての威勢を込めて、彼はレクスに向かって叫んだ。
「ゆうせいをいじめるな!」
その姿は、本人には悪いが、子猫が毛を逆立たせて威嚇するのによく似ていた。いや、いじめないから、とレクスは苦笑交じりに言おうとした。だが。
「……!」
目の前で見せつけられたものに、レクスは愕然とした。何とも言えない恐怖が、レクスの背筋をはい回る。