水の器 鋼の翼2
4.
べそをかく弟を守ろうとする、兄の左腕。レクスを背にかばい、ルドガーが立ち向かうのは、自分より年上のいじめっ子。にやにやと嫌らしく笑う彼らを前に、精一杯の威勢を張って立ちはだかる。
「レクスをいじめるな!」
年齢差による腕力の差は厳然としていた。おまけに、背後には守らなければならない存在がいて、行動範囲が限られてしまう。大抵の喧嘩は、ルドガーが傷だらけになって終わっていた。
それでもルドガーは、持ち前の頭のよさを有意義に活用し、いじめっ子たちの対処法を編み出した。最初は一方的にやられるだけだったのが、次第に勝利する回数が増えていった。最後には、その顔を一目見ただけで相手が逃げるまでに、ルドガーは強くなった。
……泣き腫らしてひりひりする目で、レクスはルドガーを見上げる。今しがた、年上の子ども三、四人を手荒く追っ払ったばかりの、大きな兄の雄姿。
ルドガーの頬には、殴られた時についた痣と引っかき傷が、痛々しく残っている。彼はそれに構わず、地べたに座り込むレクスを見下ろした。腰に手を当てて、やれやれと一つ息をついて弟に説教した。
「レクス。そうやってすぐに泣くから、奴らにちょっかい出されるんだ。お前ももっとしっかりしろ」
「兄さぁん……」
レクスにそれが簡単にできれば、こんな苦労はしないのだ。結局、毎回ルドガーに助けられてしまうことになる。しゃくり上げるレクスの目に、再び涙がじんわり溢れた。困ったようにそれを見ていたルドガーだったが、その内にふっと表情を緩めた。涙ぐむレクスの頭をぽんぽんと撫でてやり、彼は傷だらけの顔で優しく微笑む。
「――帰るぞ、レクス」
敵対する相手を打ちのめし、守るべき相手を守り通す、勇敢で頼もしい兄の腕。そんな兄の左腕が、容易くレクスに差し伸べられた。
目をつぶれば、レクスは今でも思い出す。幼かった自分と兄の記憶を。
「兄さん」
照明の一つも灯さない、真っ暗な地下室。「腕」を満たす蛍光色の培養液だけが、闇の中で幻想的な光を放っている。
床のマットレスに転がって、レクスは「腕」をぎゅっと抱きしめた。ガラスの壁と培養液に覆われた「腕」は、レクスがどんなに体温を分け与えようとも、温かみの一つさえも返してくれない。
兄の左腕には、相変わらずあの痣が形を変えずに浮かんでいる。選ばれし者の証。しかし、この痣もドラゴンのカードも、恐ろしい運命から兄を守ろうとしなかった。兄は邪神の道を心のままに突き進み、レクスはこの世に置いてきぼりにされた。
それでも、とレクスは思う。例え、運命に見捨てられたのだとしても。例え、闇の向こうへ行ってしまったとしても。
「それでも、あなたは、私の誇りだったんだ……」
レクスは、ひんやりとしたガラスに頬を寄せ、静かに目を閉じた。
レクスが生まれた時から、その人は当然のように傍にいた。
聡明さと力強さを備えた、レクスのたった一人の兄、ルドガー。小さなころからずっと、彼は周囲の人々に、称賛と期待をかけられて育ってきた。当然、比較対象としての視線が、傍にいたレクスに容赦なく向けられる。そんな環境の中で、ルドガーはレクスに様々な感情をもたらした。
例を挙げるなら、敬愛に誇り、羨望、それと心の闇。その全ては兄が指針になっていた。この世で唯一絶対的な存在。そんな強大な者の傍にいられたのは、レクスにとっては最高の不幸であり、至上の幸福でもあった。
兄と同じ道を生きたい。それがレクスの夢だった。誰よりもルドガーの近くにいて、今度は彼の力になりたいと。並々ならぬ努力を重ね、その夢はやっと叶ったのだ。けれど。
成長するに従って、人前で兄の腕にしがみ付く癖はなくなった。
だが、未だに、かばう腕のその先に出ることが叶わない。