Luxurious bone ―前編―
怖い顔をして見せれば女は引くとでも思っているのだろうか。人の感情の複雑さというものを考えない単純な男だとナミは腹立たしく思う。普段はそこが可愛いかったりもするのだが。
「・・・私が言いたいのはね。足を怪我したのがあんたじゃなかったら、サンジくんはああいう反応はしなかったってことなのよ」
一言一言区切るような物言いを、ナミはわざとする。自分の果たすべき役割を何となく気づいていながらも、それを甘んじて演じることはしたくない。どうせならこの状況を楽しみたい。曖昧な状況さえ楽しめるのは、女という生き物の特権なのだろう。
しかし昨日のサンジの姿や先刻の受け入れない笑顔を見せられると、ナミのもう一つの性質がじくじくと疼く。日の光に怯えて、暗い部屋の片隅に蹲る子犬をとても見捨てられない気持ちにそれは似ている。
「サンジくんね、何かがあるとキッチンに籠もってひとつのものを延々と作り続けるのよ。一心不乱に。それをしなきゃ死んじゃうってぐらい必死に。・・・あんたがお腹の傷のせいで熱出して寝込んでたときは、餃子だったわ。小麦粉を大盛り捏ねて、小さく引き伸ばして皮を作って、そこに山盛りのひき肉を包んで。二百個も三百個もずっと作ってた。サンジくんはコックさんだものね。美味しい餃子を作るのも綺麗なクッキーを焼くのも、ライフワークみたいなもんなんでしょうけど。不安で不安で堪らないときに、手を動かしていたら安心できるっていう感覚、鈍感が腹巻したみたいなあんたにはどうせわからないわよね。でも私だったらその餃子やクッキーがどんなに美味しくても、少し寂しい気分になるわ。」
「・・・言っただろ。俺には関係ねぇよ」
微かに苦しそうに、ゾロは顔を歪めている。
「そうね、じゃあ私も言っておきますけど、私はあんたにできないことができるのよ」
パラソルの下に延びた陰の外へ、白い足を投げ出すように組みなおすと、ナミは僅かに胸を逸らしてゾロを挑戦的に見上げる。こういうときの彼女の表情は本当に魅力的にうつるから不思議だ、とゾロでさえ思う。
「私はサンジくんに優しくしてあげることができるわ。彼を一晩中抱きしめて、大丈夫よって言ってあげることだってできるんだから」
ナミの言葉を聞いて、彼女を見返したゾロが一瞬見せた心もとない表情を、彼女は決して見逃さなかった。誰かの体温を求めて、でも手に入れる方法が解らなくて虚しく空に手を伸ばしたままでいるような、少年の顔。当たり前にそれを手に入れる方法を知っているなら、そもそもこの船に乗らなかっただろう。ゾロもサンジも。
潮風に揺れる赤い髪に触れながらピンク色の口元を勝気に上げると、ナミは屈託のない笑顔をゾロに見せる。そんなナミに再び怪訝そうに眉を眇めた後、ゾロは踵を返して甲板を去っていった。
* * *
サンジはキッチンにあるシンクの前に立って夕食の後片付けをしていた。
洗剤を混ぜた水に浸けておいた食器類をスポンジで優しく擦り、桶に溜めた水で濯いでいく。船上生活において貴重な水を必要最低限しか消費しないために、サンジは食器洗いも注意深くかつ丁寧に行う。しかしクルー達には、時に鼻歌交じりに全ての皿を真っ白に戻していくサンジが、食器洗いにさえ全神経を集中させていることなど全く気づいてないだろう。
今日の夕飯のメニューはナミのリクエストである金目鯛のアクアパッツア、アスパラガスのポタージュスープ、鴨ローストを散らしたグリーンサラダ、そしてルフィ用に牛フィレ肉のステーキだった。完璧に仕上がった料理を給仕した満足感がサンジの心に満ちている。
昨日、思いも寄らず見せてしまった失態はとりあえず忘れようと決めていた。ゾロの足を抉るように赤黒く染めていた血を見たとき、反射的にゼフが自分の右足を切り落とす姿がサンジの脳裏に浮かんだ。実際見たわけではないのに、繰り返し岩を削る激しい波のように容赦なく、その光景はサンジを苛む。人のかけがえのないものを犠牲にして、自分が生き残ってしまったという事実。
サンジはゼフが作った船上レストランで少年時代を過ごし、料理を学んだ。サンジの料理に賭ける熱意は、尋常ではなかった。見習いの自分に割り当てられる皿洗いや野菜の皮剥きなどの仕事をこなしながら、睡眠時間も自由時間も食事の時間も削って厨房に籠もり、ありとあらゆる料理を作りまくった。先輩のコックに聞いたことはノートにメモを取り、それを全てその日のうちに暗記した。カロリー計算や料理のレシピや温度と時間のコツや材料の選び方、細かく書き込んだノートは数十冊にも及んだ。バラティエから貰う給料も全て料理の材料費や調理道具を買うためにあてた。同年代の友達と遊ぶことはなかったし、少年らしい思い出も何ひとつない。料理だけがサンジの全てだった。
「狂ってるな、サンジは」と、先輩のコックに言われたことがある。それでもサンジは満足だった。ただゼフを喜ばせるため、彼に認めてもらうためにサンジは料理を学んだ。
自分のつくったコンソメスープをゼフが初めて「うまい」と言ってくれたときのことをサンジは生涯忘れないだろう。その言葉で、サンジは自分の罪が赦されたような気がした。
一言も口にすることはなかったが、ゼフはサンジを愛してくれていた。後継者として、自分の息子のように。だからこそ、サンジが自分の夢を追うために海に出ることを許してくれた。そのことを、バラティエを去る日に始めて、サンジは知った。
しかし、サンジは築いた居場所を捨ててさえも、海へ出たい気持ちを止められなかった。自分の中で朽ちていく感情を見過ごすことはできなかった。
オールブルーを見つけたとき、何かが自分のなかで変わるだろうか。
それを確かめたかった。ゼフの足と引き換えにあの日失ってしまった自分のもう一つの心。孤独な幼少時代も母の思い出も犠牲にした夢も、全て無駄ではなかったと確かに存在したものだと、肯定してくれる何かが欲しい。
ゾロの足の傷ぐらいで激しく動揺してしまう自分の弱さが嫌いだ。嵐のたびに眠れなくなってこっそりアスピリンを飲んだり、真夜中のキッチンで時折襲う孤独感と焦燥感を酒で誤魔化すような自分自身の弱さ。
それに嫌悪して、自分は吐いた。
ゾロは関係ない。あの男が自分の心に波風を立てたわけではない。
今朝起きてから、呪文のように繰り返してきた言葉をサンジはもう一度思った。
その時キッチンの扉が開き、ビビが入ってきた。
「サンジさん」
ビビの声にサンジは顔だけで振り向き、にこりと口元を上げて笑う。
「おう、ビビちゃん。どうした?」
「何か手伝えることないかしら。ナミさんがもう寝てしまって・・・私、少し暇なの」
「レディに労働などさせられません、って言いたいところだけど。この船には女の子のお相手ができるような気の利いた野郎はいないからね、俺以外は。・・・じゃあ、せっかくだしテーブルに置いてある食器類をそこのふきんで拭いてくれるかな」
作品名:Luxurious bone ―前編― 作家名:nanako