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ところにより吹雪になるでしょう

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 夕方だというのにまだ蒸し暑く、去り行く夏へ必死に抗うように昼間の熱気が街のいたるところに偏在している。被っていた帽子をウチワ代わりに、栄口は顔の前で軽く扇いだ。屋根と屋根の向こうから沈みかけの太陽がゆらゆらと存在を示し、水谷お気に入りのピンクのマーカーペンで塗りつぶしたみたいな蛍光色が目に痛かった。不穏な夕暮れにつられ、蝉が物悲しくも羽を擦り合わせる。
 突然耳障りな不協和音が響き、水谷と栄口は顔を見合わせ何事だろうと音のしたほうへ駆け寄った。未だじわりと熱を残すアスファルトへ蝉が落ち、ギーギーと苦しげに鳴いている。蝉は身をよじらせ茶色く細かい体を起こそうと必死に足掻く。その無様な姿は滑稽だったが、水谷はなにか自分自身を投影させるものを感じた。
「せみ、間近で見るの久しぶり」
「オレも、小学生以来かも」
 しゃがむ水谷と栄口の間で、蝉はまだジタバタと奇怪な試行錯誤を繰り返す。
「オレはてっきり水谷もう海行ったもんだと思ってた」
「行くなら栄口も誘ってるよ」
「そうかな」
「え?」
 驚いて隣を見たが栄口は地面へ視線を落としているだけだった。聞きなれない暗い声が確かに水谷の耳へ届いたと思ったのだが。カナカナカナ。ひときわ蝉たちが大きくざわめき、空気が震えた。
「まだ行ってないなら行こうよ、海」
「いつ?」
「いつでもいいし、今からでもいい」
「今からって……オレあんまり金持ってねーし、っていうかさかえぐち」
 お互いを見るでもなく、ただのた打ち回る蝉を眺めて会話をしていたからなのだろうか。雰囲気を察するはずもないけれど、蝉はようやく背を返し、すばやく空へ帰っていった。
 実際水谷の財布の中には行って戻ってくるだけの金がなかった。そのことを正直に栄口へ告げると、それがどうしたことかという顔つきで軽く「おごってやるよ」と返された。栄口は欲しくても買わなかったものと同様に、使いたくても使わなかったおこづかいがたくさん残っているのだという。それなら尚更俺なんかに使わないでも、と言いかけて水谷は黙り込んだ。
「……オレ、今しかできないことがしたい」
 アスファルトの上に立ち尽くすその姿が一瞬だけゆらりと霞んで見えたから、水谷は思わず栄口の手を取った。部活でする瞑想の時とは違い、指先だけが妙に冷えたその手を不器用に握り締めたら、栄口が驚いたような困ったような表情になる。普段よりわずかに大きく開かれた瞳に水谷の姿が映り、つぐんだ口は言葉を探すふりをして相手が何か言うのを待っているように受け取れてしまう。
 もう日も暮れかけたこれから海に赴いたとしても向こうに着くころにはすっかり夜になってしまうだろう。そもそも泳ぎに行くのか観光しに行くのか、またどこの海へ行くのか栄口の意図がわからない。いや、栄口は「今しかできないことがしたい」のだ。そう考えるとこんなおかしなこと、「今しかできない」。
 そこで今という言葉の重みを知る。来年の夏も栄口と一緒に居られる保証はないと気づくと、この誘いに乗らない自分がひどく滑稽に思えた。
 とりあえず近くの駅まで歩き、切符売り場の真上に広がる路線図を二人で眺めた。四方に伸びる線をたどると、上って下ればどこかしらの海へ着くようだった。海沿いの駅名はどれも行った事のない名前ばかりで変に気持ちが踊る。
「まずどこまで行こうか」
 そう問いかける栄口の表情で、水谷はもっと深くまで好きになってしまう気がした。自分の気持ちを誰にも邪魔されず打ち明けられるとしたら、これが最後のチャンスなのかもしれない。水谷の中に渦巻きだした決意と共に、ただ海に行くだけの旅が始まった。