鷹の人2
「あーあ。おい、加減しろよ。こんなクソ寒い最中、何が悲しくて俺はお前の趣味につきあわなきゃならんのか。ったく」
息が苦しい。雪が頬を叩き、目の中に入るのも、構わない。
視界が開けた。
こぎれいな、貧民窟には似合わない風情の男が二人。片方は、醜いその尻を剥き出しにしている。その装束には相応しくはない下卑た笑い。物言い。
そして、その足元には気絶した小さな妹。
地面に無防備に投げ出された細い剥き出しの素足。それにかぶさる、尻を剥き出しにした男。それを眺めるように、もう一人。
それをペレアスが認めた瞬間、声が、迸った。失っていたものが、戻って来た。
それは人の言葉ではなかった。
それは、少年が絞り出せるような声でも、また、なかった。
突然の絶叫に驚くように男が振り向く。
「なんだ、てめ…」
言葉を言い終える前に、少女を凌辱していた男はペレアスの渾身の体当たりにより、体勢を崩した。
鈍い音と共に投げ出された男が、突然の侵入者に気がつく前に、もう一人がペレアスにつかみかかろうとする。避けられるわけがなかった。渾身の力駆け、そしてぶつかり、身体はふらついていた。
「…フン、おおかた、このガキの兄貴か何かだろ」
ぐい、と掴まれた腕をねじり上げられる。酒とおかしな臭いのする息を、吹きかけられた。
「だが遅かったなあ、お兄ちゃんよ。お前さんの大事な妹は、もうこいつのモノになっちまったなぁ?」
男が顎でしゃくるように示し、だみ声で笑う。倒れた男は、うめき声をあげながらようやく身体を起こしたようだ。
言葉の意味は、理解できた。
怒りが、肚の底から沸いて来た。妹は小さかった。足が弱かった。何も、悪い事などしてはいない。何も、出来ない。ただ生きていただけだ。何故、こんな目に遭わなければならなかったのだ。
押さえつけられているというのに、臓腑の奥から沸き上がるものは、恐怖心をどこかへ消失させていた。
血流が沸騰するようだった。ペレアスは脳裏に浮かんだ言葉を、無意識に紡いだ。それは、古の、呪いの言葉だ。
「なんだ?こいつ……ブツブツと、意味のわかんねえこといいやがって」
男は言葉を全ては喋る事はなかった。次の瞬間、喋る事すらも出来なかったからだ。
もう一人が体勢を整えきるまえに、もう一度ペレアスは呪詛を吐いた。小さな妹ごと、男は、闇に喰われた。すべては無音だった。
わずかな瞬間の出来事。
ほんの数分前までの、貧民窟にはよくありがちな悲劇は、その痕跡を跡形もなく消滅した。
呆然と、立ち尽くす少年。その足元には、小さな黄色の花が、揺れていた。
その後の事を、ペレアス自身がよく把握はしていない。
とにかく、老人が兄弟達とともに迎えに来て、その日から兄弟達の自分を見る目が変わった事。
時折彼らがささやく「印付き」という言葉。小さな妹は、盗賊に殺されたということに、老人がしたということ。それでも大幅に何かが変わる訳ではなかったが、ペレアスが外に出る事を、老人が禁じた。だが、それでも時折どうしても外に出なければならぬことがあり、そのような時に人とすれ違うと、畏怖の眼差しで見られ、あからさまに避けられるようになったこと。「印付きだ」とささやかれ、石を投げられた事も、少なくはない。
何故そのような事態になったのか、ということを深くは考えなかった。人の口に戸をたてることなどできはしない。まして、あの悲劇を、目撃していたのは、おそらくペレアス一人ではあるいまい。ただ、そのような日常に起こりうる不幸に、ここの人々は鈍感なだけだった。己の身を守ることで精一杯の人間に、そこまで求める事など出来はしない。
それでも、それらの事をのぞけば、それからの日々は至って平穏だった。避けられればこそ、波風立たぬ生活が享受出来ることの皮肉さを噛み締める事に慣れてしまえば、どうということなどは、ない。
兄弟たちは、一時期こそペレアスと距離を保っていたが、以前とすっかり同じとはいかぬまでも、彼らなりに老人に諭され、理解をしたらしく、あからさまに避けるということはしなくなった。孤児院を出る一ヶ月前あたりは、以前のように声をかけてくる子供もいた。
イズカに見いだされ、孤児院を出立するその日その時。戸口の影から様子を伺う子供たちのまなざしは、どこか寂しそうだった。
そして老人は言った。
「決して、その力を人前で使うな。お前の力は強い。その身に宿す精霊も同様に」
皺だらけの顔の奥に光る黒い目が、深い色をたたえてペレアスを直視する。
「だが、強すぎる。強すぎるが故、不幸を呼ぶのだ」
老人は、ペレアスの両肩に、手を置く。まるで枯れ木のような腕だが、しっかりと力がこめられている。
「そしてその不幸は、おそらくお前のみに留まらない。だがペレアス。己を呪うな。お前は、その力に屈することはない。私はそう信じる」
老人は、表情を動かしはしなかった。ただ、両肩におかれた骨張った手が、震えていた。片手でその手の平を覆って、ペレアスは目を閉じた。
「ありがとうございます。ここまで育てて下さった事、感謝します。皆、健勝でありますよう、女神のお導きを」
数年ぶりに口にしたまともな言葉は、別れの言葉だった。
誰も、何も、それ以上言わなかった。
老婆を喰った半獣を、そして暴漢と妹でもあった少女を殺したのは、他ならぬ己だ。
戒めの言葉。老人は、ペレアスの魔道の才を高く評価していた。そして恐れてもいた。途中から魔道の学問ではなく、観念的な理論にうつったのは、恐らくはその才の真価を老人が察したからなのだろう。
闇の精霊を身に宿すということは、その身に常に負の気をまとうことに等しい。平静な状態であれば、それはさして害をなさない。
だが命を奪い、奪われる、そのような危機的な事態に直面した場合、術者がその荒ぶる精霊を制御しきれず、暴発する。それは通常の理魔道にも同様に言える事だったが、闇の魔道は、威力の高さの代償に、暴発の可能性は格段に高い。ゆえに、それなりの力量がなければ、己が扱う術に喰われ、自らは滅び、そして周りを巻き込み惨事を引き起こす。
この広い大陸中に、ほとんど闇の魔道の遣い手がいない理由。彼らが畏怖の対象であると同時に、疎まれ、蔑まれる理由はそこにあった。
手にもったままの魔道書は、こうして携えていたところで、何も語ってはこない。
その内に記された文言を編めば、常人より遥かに体力に劣るペレアスでも、屈強の戦士の命を一瞬で奪う事も容易だった。その代償として、己の命を削りながら。
護符の話をした時の、ミカヤの瞳に走ったなにやらいいえぬ物悲しい光。それに、気がつかなかったわけではない。
今であればわかる。おそらく彼女は、……真に、印付きなのかもしれない、と。そう考えればすべての辻褄は合う。彼女の不思議な力は、デインではほとんどその存在を知られてはいない鷺の種族のものに近いように思う。あの、人心を安らがせる琥珀の瞳やどこか輪郭のない存在感。