鷹の人3
末尾にベグニオン帝国の印。そして『女神の恩寵により、始祖オルティナの血脈に連なりし神使にして偉大なるベグニオン帝国の僕』の文言、本人直筆のサイン。そこまで確認すると、ペレアスは顔を上げ、フリーダを伺う。
「この事、元老院は察知しているかな」
「……おそらくは」
「神殿が動いた様子は」
「いえ。特に報告はございません」
「やはりトメナミ殿は、あくまでも介入を拒むという姿勢を崩さないか。借りを作ることになるな」
「今回の事は」
「おそらく知っている。むしろ、今回の戦の性質を考えれば、先に神殿側に使者がいったのかもしれない」
「では、件の間者は、こちらで処理してしまって構わないのではないでしょう」
「ああ。それで、その間者は、今どこに?」
「これに」
フリーダが主君に向かって一礼し身体をずらすと、なるほどすらりとした身の丈の女性が、這うようにして、膝をついていた。後ろ手に縛られ、上半身は拘束されている。
質素な僧服を身にまとい、長い頭巾を被って誤摩化してはいるが、どうにも馴染んでいないとペレアスは思った。そもそも、その灰色の地味な僧服が体格にしっくり合わず、女神に祈るにはいささか、そのてのひらは無骨であり、世間と隔絶されたる修道女にしては、彼女の眼差しも表情も,鋭すぎる。まるで仮装の態である。真に優秀な間者であるのなら、まず、違和感など感じさせない。
神使親衛隊のいずれか、身のこなしの優れたる者を神使は送り込んできたに違いない。これは元老院の間者に見つからぬというほうがおかしい。
「わざわざ、敵地に単身乗り込むとは、その度胸と忠節は見上げたものだな」
間者が息を呑む。切れ長の鋭い眼差しが、ペレアスをきつく見据えている。一国の王に対する態度ではないのだが、そのような事は、ペレアスにとってはどうでもよかった。気弱な性根というのは、治そうとして治るものでもない。今この瞬間ですら、心のどこか、片隅に、この期に及んでも逃げてしまいたい思いがあることを否定はしない。
ペレアスはだが、一度死を覚悟し、受け入れようとした。そして自分を弱いのだと認めた。記憶の底に封印してきた過去とも対峙し、受け入れた。
ゆえに、たとえどのような侮蔑の言葉を浴びせられようと、強い調子で罵られようと、動じる必要が、ない。
弱いのだ。怯えて当然なのだ。弱さを認めたとたん、影に怯える心は、外の世界に怯え、縮こまる意志は、消え失せていた。
こうして敵の間者と対したところで動じない心は、デイン王という立場を与えられればこそ、得ることが出来たのだ、とペレアスは思う。
「返答は、否だ」
言うと同時に、間者の目の前でペレアスは書状を破き、円卓の中央部の燭台にくべた。羊皮紙は、あっという間に燃え、そして炭になる。
その様子を目にした女間者の瞳の鋭さに、殺意に近いものが宿った。ペレアスは彼女の黒い瞳をじっと見る。凛とした、強さと美しさをもっている。このような強いまなざしを持つベグニオンの間者を見るのは初めてだ。
「我が国は帝国とは袂を分った時より、常に帝国に屈せぬを良しとする気風が強い。初代国王より脈々と受け継がれたるその気概と精神、今をもってしても決して変じはしない」
まるで、与えられた台本を読む役者のようにすらすらと言葉は出てくる。元々ペレアスは決して愚鈍ではなく、むしろその頭脳のみならば、明晰な方だった。だが、強く己を主張する事が出来る傲慢さ、自信に、あまりに欠ける性格をしていた。それが、人を統べ人の上に立つものとして致命的だった。
いくらその内に潜む理想、力があれど、それを表に出せなくば、無能と同じことなのだ。いくら優秀な部下がいようと、彼らを信じ彼らを的確に動かせなくば、まさに宝の持ち腐れである。その事にペレアスが気がつくのは、遅すぎた。
だが、まだ、全てが終わったわけではない。
「我が国を属国たらんとする、帝国の傲慢なる態度。更には半獣と共謀し我が国を滅ぼさんとする帝国の意図は何か。先に国境を侵したるは、そちらだ。それについてはどう言い訳をするのか」
「神使様のご意向を無視し、返答を悪戯に遅らせたるはそなたではないか!何を、まるで我らが悪者ような言い方を!」
「口を慎むのだな、そなた、己の立場をわきまえているのか」
フリーダが、縄を強くひいた。引きずられ、縄が身体に食い込み、女間者はうめく。それでも決して顔を俯かせる事はない。
「いや、フリーダ。構わない。縄もほどいてやるんだ」
「王!それは……」
僅かに言いよどみ、フリーダは、間者と主君双方を何度も目線で確認し、最後にペレアスに顔を向けた。
「宜しいのですか?」
「縄を、ほどけ、ランビーガの娘、マラドの蒼薔薇」
逡巡のそぶりを見せるフリーダに、ペレアスは、以前は見せた事もないような強い調子で告げる。
マラドの蒼薔薇とは、ランビーガの娘同様の、彼女を讃える意図でつけられた通り名だ。青い薔薇などは、現実に存在はしない。存在はしない、だが、それは花を愛でるものにとって、憧れの的でもある。 空想上の花の名を持つ騎士は、今まで見た事もないような主君の様子と声色に、一瞬あっけにとられた。側近の青年は、だが、動かない。タウロニオもまた、事の次第を見守っていた。部屋に集うもののうち、サザの目が鋭くなり、アムリタの顔色がやや、変じた。
「貴様……どのようなつもりか?我に情けを、かけるのか?!」
「必要がない。神使にこちらの言葉、確実に伝えてもらわなければならない」
「だが縛めを解けば、私の命と引き換えに、貴様を殺す事も出来るぞ」
間者の言葉に、背後で細い悲鳴があがる。母アムリタだった。彼女は、言葉にならぬ言葉でもって、間者を罵りつづけ、あの者を殺せと喚く。母を想う心に偽りはなかったが、それでも、煩わしい、とペレアスは想った。
「母上を寝所に」
視線は間者を見据えたまま、ペレアスは口早に告げた。側に控えた青年とタウロニオが素早く動き、アムリタのつんざくような悲鳴がさらに増す。弱々しく叱咤するクルトナーガの声も、聞こえた。
「母上、お休み下さい。これ以上の無理は、お体に触ります」
戦士とみまごうばかりの体躯をした青年と、歴戦の猛将タウロニオの二名でもってして,苦労しながらアムリタを連れてくる。なるほど、母が竜鱗族であるというその言葉は確かに真実であるようだ。そこから生じる疑問に対しては、ペレアスは思考を停止させていた。今それを問うべきな場合では、ないのだ。そのようなことは、全てが終わってから後、悩めばよい。
「ここ数日、母上のご心労、知らなかったわけではありません。あとは私に任せて、母上はどうぞお休みを」
彼女の姿を認め、ペレアスはことさら声色を穏やかにして、告げた。最愛の息子に、柔らかな笑みをもって言葉を重ねられれば、アムリタも流石にわきまえたのだろうか。まるで錯乱の態をなしていた様とは裏腹の素直さで、彼女は青年とタウロニオに促され、部屋を後にした。タウロニオは主君の側に留まり、側近の青年は、アムリタと共に退出する。
女間者は、その様子を黙って観察していた。ペレアスは、母に言葉を告げるその一瞬を除き、彼女から視線を外さなかった。