鷹の人4
ラグズ兵による、デイン兵の残虐とも言える殺し方。たった一人の新兵にすら、数名のラグズ兵が群がりその肉の一片までをも破壊し尽くす、徹底ぶりであったと聞き及んでいる。それは戦場に呑まれ狂ったという証拠に他ならない。
神使サナキは、略奪も封じれば余計な犠牲を払いたくないと、けなげにも宣言しているが、それは猛り狂ったラグズの兵の耳になど、いかほどにも響いてはいない。こうなってしまえば、帝国皇帝である、神使であるという権威など、何の意味もなしてはいない。
デインという、その権威を否定しかしない領域においても、あの小さな神使は、神使という権威のみにしか、すがれない。堅い忠誠を誓う部下の追従にあぐらをかき、己の正当性を、疑う事は微塵もない。なんとなれば、あの、密書の上からの物言いなのだ。敵対する者が、そのようにいわれ、さて追従の意を示すとでも思ったのだろうか。 そしてその眼は、いつしか、己が正しいと信ずるがゆえ、見えぬものがあり、その事にも気がつけないでいる。
それを、ペレアスはどこか哀れなように感じなくもなかった。
対するデインとしては、とにかく時間を稼ぎたい。その一点に、尽きる。そしてそれが、唯一の希望へと繋がるのだ。
先日、ベグニオン側の密偵を何人か、捕えていた。
余程重要な機密を抱えていたのか、或いは元老院に属する「監視」要員だったのか。
慎重に拷問をしたのだが、最後の詰めの段階で自害された。結局誓約書はガドゥス公が後生大事に常に身につけている、という情報しか引き出せなかった。情報を吐いた者は、ペレアス自身が直接手を下した。心が痛む、という感覚が遠くなっていた。
幸い、現在元老院は民衆の対応に追われ、疲弊しきっている。民を蔑ろにし続けた、その結果だ。
誓約書さえ、こちらの手に入れてしまえば、呪いは不完全になる。
呪いはあの時の誓約書に依っている、というのは、呪術祈祷といった類いに多少の知識さえあれば、自ずと想像がつく事だ。だから、時間を稼ぎたかった。
帝都に放った「草」が無事辿り着き、首尾よく誓約書を入手し、帰還。それまでの間、耐えねばならない。
ペレアスが歴代デイン王の私室に見つけた誓約の解除方法を知ったのは、既に「草」を放った後だった。おそらくはガドゥス公の暗殺も、有効な手段かもしれない。だが、その為に再度彼らの中でも特に手練の者を一人放った。途中、誓約書奪還の任を負ったものらと合流するもよし、単独で動くも良し。それに関しては、「彼」に一任してあった。
絶望にも等しい状況だが、希望が絶たれているわけではない。「草」は代々デイン王家に遣える、特殊な集団だった。主に諜報活動を得意とするが、彼らの顔をペレアスは知らない。その名も、知らない。
知っているのは、戴冠式の直後に接触して来た初老の男が、その申し出を信じさせる程只ならぬ雰囲気を秘めていた、という事ぐらいだ。元老院との密談の際のイズカの態度の謎めいた強硬さも記憶に新しく、半ば疑心暗鬼状態にあったペレアスだったが、なぜか、その男を信用してしまった。
自分が玉座についてから、唯一、間違っていなかったと確信出来るのは、彼ら「草」を信用した事くらいだろう。
幾度か彼らに「仕事」を頼んだ事があった、そしてその仕事は、確実だった。
そしてまた、情や倫理観等を徹底的に廃した彼らの行動も、ペレアスに王という立場、王という存在を思い知らしめるを手伝う事になっていた。
「クルトナーガ王子の参戦に関しては、皆が懸念する必要はない。また、彼らラグズの参戦の表明などを含め全て、私が負う」
堂々と宣言する様は、まさに王者然としている、と、ミカヤは思った。
己の神通力が失われ、かわりに女神の恩寵が、神性が、そのままペレアスに乗り移ったかのようにも見える。これが、つい先日、自分の前で取り乱し、許しを請うた人物と同一なのだろうか。
なれば女神はまだこのデインを見放してはいない。まだ、この国は滅びの道をたどるような事はない。つい先ほどまでの絶望感が、嘘のようだった。
デインは滅びない。デインは、生き延びる。
希望はまだ、ここにある。今のペレアスを見ていれば、そう確信出来た。
「作戦の概要を告げる前に、皆に言いわねばならない事が、ある」
ペレアスは、あらためてその場に介した者、ひとりひとりの顔を、時をかけ、見渡した。
本来ならば、全軍の前で懺悔をすべきだとすら思っている。勿論、それがあまりに愚かであるか、わかっていた。
だからせめて、「誓約」の事実を知る、ここに集うものには言っておかねばならない。
ジル、ツイハーク両名は、だが、夕刻に顔を合わせた折、それぞれが違う言葉で、同じ事を言って来た。今更、この忠義が変わる訳ではない。この場に居る事を選んだのは己で、それは己の信念に従ったまでなのだ、と。ジルもツイハークも、ともに、グレイル傭兵団とは因縁浅からぬ仲である。何度か刃も交え、言葉も交わしたという。それでも両名は、デインを選んだ。
「実を言えば、誓約を破る術。皆無というわけでは、ないんだ…」
一斉に皆が王の表情を伺った。どういうことだ。八対の瞳が、それぞれの思惑を秘めながら一斉にペレアスに向けられる。影の様に控える側近の男は、動かない。
「ただ、これは何らかの書物に記されているようなものではなく、私自身の魔道の知識からおおよその判断を下したもの。確実とはいえない」
だからこそ、決定的な決断を出来ずにいた。迷いが、あった。
だがそのお陰で、最悪な事態を招いてしまった。この懺悔の相手は、罪を告白する事でその者の許す女神の神官ではない。信頼すべき部下たちだ。心強い味方だ。
落胆させるだろう、信頼を裏切る事にもなろう。手段を持ちながら、それをせなんだ王に対し、愉快な感情を抱く臣がいるわけがない。
それでも、黙っている事は出来なかった。それを、この場で吐露すること。それこそ、ペレアスにとっては、最後の恐怖の克服であった。
「血の誓約とは、おそらくは呪い、魔道を用いて行う呪術的なものだ。呪いに必要なものは、一定の贄、そして契約を交わす者の肉体の一部あるいは直筆の署名ーー最も一般的なのは血や毛髪といったもの。そういう話を、耳にした事がある者も、いると思う」
魔道の知識に精通するものは、その遣い手の数に反してデインには昔から少ない。
イズカのような学者ならばいざしらず、貴族階級においても、生来身体が弱いものでなければ、まずは騎士を目指す。
それが適わぬものや、力に劣るも武門を志す子女などが魔道の道を目指す事はあったが、そう言ったものは殆どが長弓部隊を志す。現在のデイン軍においては、竜騎兵や黒騎兵隊と共に、主力と言ってもいい部隊だった。
平民や義勇兵は、装備に金もかからず、殊更な訓練を積まずともよい弩兵隊を選ぶものが多い。
先君の代より、変化の兆しは見られたが、それでもやはりデインにおいて、一般的に誉れ高き存在と言えば騎士である。竜騎兵とは言わずとも、かの黒鎧に身を包む騎馬隊に編入されることは、貴族階級の子息にとってはそれだけで栄誉である。