鷹の人4
諭すような口調で静寂を破ったのは、やはりハタリの女王だった。
彼女はデインに属してはおらず、ハタリの長だ。ゆえに、たとえ一国の王であるペレアスに対しても、その立場を考えても対等に言葉を交わす事が出来る立場でもある。少なくともペレアスは、彼女を一国の主として接していた。
「時は限られているぞ。無為には出来まい。…それにそなたの罪、裁かれる時はいずれ訪れるであろう」
「はい」
素直に肯定の意を示すペレアスに、ニケは緩やかに笑みを向けた。それは、背後に控える白翼の王子のような、向けられた者の意を、存在を、まるで抱擁するかのような、いいえぬ心地よさをもたらすそれだった。
なるほど、ここまでの覚悟だった。なれば、神使などという存在に対する、あの強硬な態度もまた頷けるものだ。権威を振りかざし、暴挙に出るのであれば、たとえ皇帝神使であろうと屈せぬ。そのような気概を持つ王。ニケは、肚の底、胸の内に久々に沸くものを、おさえるつもりはない。
デイン王ペレアス。道程の途中に聞き及んだ風評とは,全く違う。或いは、その評ですら、何らかの意図で操作されたものではないのか、とすら思わせる。竜王子が己の命運すら託した気持が、ミカヤが頑に信ずる理由が、なるほど、すんなりと理解出来る。
ニケの蠱惑的な唇が、この場に招かれてより何度目かの笑みをかたどった。
「ペレアス王。俺みたいな…下っ端から言わせてもらえば、ですが…いたずらに嘘を重ね、民を騙すような真似を、陛下はなさらなかった。今の事も、…こうして、正直に話して下さった。それは、王が、我々を信じて下さっているからではないのですか」
「ノイス」
ノイスは短くのばした髭の下に、笑みを浮かべた。
「俺は、嬉しいですよ。こういう事を言う場合じゃないのはわかってます、でも、言わせて下さい」
悪くない。いや、この王が己の名を記憶し、呼ばわる事のなんと心躍ることだろう。
一個小隊を任された。最も、部下の殆どは正規兵ではない、義勇兵だとか、傭兵だとかいったあらくれ男の集団だ。だが、彼らのような無法者は、かえってその方が都合が良かった。彼らに権威などは関係はない。己が信じられるものにのみ、忠実だ。そしてノイスは、度重なる戦役で、彼らの信頼を、その腕っ節と知恵でもって、勝ち取っていた。
夢破れ、裏路地を死に態で彷徨っていた頃が嘘のようだ。こうして、王に目通り適うどころか、言葉を交わすことも出来ている。
それもこれも、この若き王に出会えたからである。その邂逅こそが、ミカヤがもたらした希望に他ならない。
確かにミカヤはデインの救世主だ。それは、何も、デインを解放に導いたその一点のみからくる評などでは決してない。
「それに今回の戦、いずれはデインを巻き込んだものになったでしょう。一度は中立を保ったクリミアですら、結局は神使やラグズ連合に助力したこと、どう口で言い繕うと、結局はこの戦に加担したに等しいことになります」
ペレアスが、思索をするかのように瞼を落とす。だがその口元が、僅かに緩んだ事をノイスは見逃さなかった。自分の発言は、無意味ではない。この王が、決して自身で思っている程、傀儡などではないのだと、伝わっている。
事実ノイスは、貧民窟で過ごしていた割に豊富な知識でもって、そう情勢を見ていた。
デインという国の気質、そもそもベグニオンという国に対しての反発。反ラグズ感情。駐屯軍の暴政、元老院、神使。あらゆる要素を鑑みれば、デインが元老院側につく、という事自体、不自然ではない。
「たかだか駐屯軍を追い出したところで、まさかデインが、ベグニオンより完全に独立出来るなんて考えてるのは、一部の若者ばかりです。ベグニオンは、形ばかりはデインの独立を許してる…ですが、過去を見ても、一度とて帝国がデインの事を対等な国として扱った事なんて、ありはしません」
穏やかに、だが断言するようなノイスの隣、サザは居場所がない思いをしながら、堅い椅子に座っていた。
この場にある椅子は、特別なものでも何でもない。防衛の拠点で、軍議を開く際に必要なだけの、簡素なものだ。当然だが、王といえど特別な椅子をあてがわれているわけではない。そういう事に、ペレアスは不満を一切、言った事が無かったということを、唐突にサザは思い出していた。
ペレアスは必要以上の贅を嫌う。それは、財政難に喘ぎ、資金繰りに苦しむ現在のデインであれば当然だ、とサザは思っていた。だが、駐屯軍が後生大事に溜め込んでいた財は相当だったと聞く。それを、殆ど国民に還元し、民の支持を代償にデイン王室はその財を失った。
にも関わらず、度重なる戦の折、例えば兵糧が不足したとか物資が足りぬ、などという悲鳴を、兵士たちから聞いた事はない。ベグニオンより借金をしたという話は、誰の口にも上っては居ない。兵士たちの表情や声色は、決して衰えてはいない。
それらが何故か、サザは考えてもみなかった。
そして、ノイスの言うような事情があったことを、仮にもデイン軍総司令でもあるミカヤの側にいながら知らなかった。
どちらもが、以前であればどうでもいい、と思っていたようなこと。
だが、それが思い違いであった、少なくとも、そのような身勝手が通るといつまでも思い込んでいる事こそ、恥ずべき事なのだ。
観念するようにサザは瞼を堅く閉じた。尻の下の、堅く冷たいと思っていた椅子も、意識するでもないほど、馴染んでいる。
「ノイスの言う通りです。神使はともかく、実権を握る元老院は、デイン、クリミア両国を属国としか思ってはないこと、以前のクリミア領土内における元老院の暴挙からも伺えます。いずれにせよ、出陣せざるをえませんでした。その時を早めたのは、神使ですが」
フリーダがそっと捕捉するように言葉をつなぐ。
「俺たちデイン人が信じるのは、指導者と望むのは、神使じゃない。暁の巫女を見いだし、祖国を解放に導いた陛下、あなた様に他ならないんですよ、ペレアス王」
物は言いようだった。だが、そのように考えているデイン人が、少なくはないのだ。
ノイスの部下には、ミカヤよりも国王を慕う声も少なくはない。兵士に限定すれば、実はミカヤの威光はそれほどではないのだ。彼らの英雄は、どちらかといえばタウロニオであったし、彼らが忠誠を誓うべきはミカヤではなく、ペレアスである。彼らが王たるものの是非を問い、論じるようなことは、ほぼない
まして、元駐屯軍兵士などは、殆どがタウロニオの口添えや王の一存で編入されている。今回の王の参戦を危ぶむより、それに奮う兵の方が多かろう。ノイスは、そう見ていた。
「この命。陛下の為に捧げられるというのなら、後悔など覚えません」
ノイスは満面の笑みを髭面の下に浮かべた。同時に強く頷くのは、フリーダだった。
タウロニオも、あえてこの場に宣誓するまでもないというように、小さく頷いた。
「私も、まだ…戦えます。ペレアス王、あなたを犠牲にして生き延びること、そのことの絶望を思えば……こんな、身体の負担などは、いかほどにも苦痛を感じません」