鷹の人5
手薄になった所を、狙われないとは限らない、とシグルーンは言う。陽動などしても無駄であり、むしろ、元老院に脅されているのだとすれば、狙ってくる、という懸念が先走りすぎていた。
だがそれらのことを、ちらりと視線を投げ掛けることで他意を含んで見せたシグルーンは、やはり一筋縄ではいかぬとティバーンは肚の底で思った。
神使の身柄を他者にあずけるという事が、その責任感の強さと一度の失態から、決して許されぬ事であると頑に思い込んでいるのであろうが、おそらくは彼女はティバーンの胸の内にある思惑を、漠然と感じ取っているのだろう。軍議の前に鷹王と参謀が密かに言葉を交わしている所を、あるいは目の当たりにしていたのかもしれない。
重ねて彼女は言う。
フェニキス兵の中、えりすぐりの強靭な翼を持つ種族に任せるもよいが、「半獣」に引き連れられた神使、では、ラグズ蔑視が罷り通るベグニオン帝国では、あらゆる意味で最悪の凱旋となる。少なくとも、今回の事は「民意」が最優先なのだと。
そもそもデイン側は、神使の尊顔など見た事がないであろうに。セネリオは渋面の下にひそかにため息をついていたに違いなかった。彼女の言葉を、なるほど、親衛隊長らしい物言いだ、とウルキは思った。
シグルーンにラグズ蔑視のつもりはない。サナキも無論の事だ。だが、彼女らが如何に親ラグズを主張しようと、それが民衆の間に広く受け入れられているのか,といえば別だ。何より、そう告げるシグルーンの憂い顔が、それらを如実に物語る。こうなると、見目麗しい淑女めいた容貌というのは、実に強い。
また、ライも、ティバーンも、その事を含めないほど、ベオクの事情に疎くはない。そこに間髪いれず「これ以上あなたがたに、恥の上塗りをさせたくはありません」ときっぱり言われてしまえば、口封じとして申し分ない。
彼女が強硬に反対すれば、サナキとて、我を通す事は出来ない。今、サナキが最も頼れるのは、シグルーンだ。サナキにしては、セフェランを除けば最も信頼する部下であり、姉のような、母のような存在なのである。そして、なるほど自分を認めてくれる彼女の意向に、まだ幼き皇帝が逆らえるわけもない。
だが、デイン軍やデイン国民が反発するだろう、というセネリオの懸念に対しては、彼女はあえてその事を話題にはしなかった。そこもやはり、皇帝神使は絶対的であって然るべき、というまるで盲信めいた意識に毒されているからに他ならない。名目上総大将であるアイクは、あえて戦わない選択肢を非ともしないが、だからといって是ともせぬ。彼は雇い主に対し順応な、傭兵でしかない。サナキがそのようになすといえば、あえて反対などしない。今回もそうであり、ただ黙って双方の主張に耳を傾けているばかりである。
とはいえ、肚の底に一物あるティバーンも素直に引き下がるような真似は出来なかった。
軍議の前、セリノスの姫を伴って現れたティバーンの姿を認めるや、休む暇を与えずセネリオが接触して来ていた。彼の提言に、ティバーンは僅かの思案ののち、首を縦に振っていた。そのようなやりとりがあればこそ、ティバーンはその巨躯をセネリオの隣に置いていたのだ。
この大戦のきっかけを作ったと言ってもよいかのフェニキス王が、率先してこのような案を支持したのには当然だが理由があった。ゆえにウルキもヤナフも、王の提言に疑問は抱かなかった。
確かに、ベグニオン軍には故郷を焼き払われている。彼らに対し、憎しみの情がない、とは言えない。さらにラグズ特有の、戦に逸る心もある。だが、ティバーンは、この戦が己の野心が高じ、それが自らの選択により拡大したことを、わずかにではあるが悔いていた。
それは目下かのメダリオンのことにある。実を言えば、かのメダリオンは白鷺三兄弟が交代で沈めねばならぬほどの「負」の気をまき散らしてた。かねてよりの懸念が、いよいよ現実味を帯びて来ている。であれば、尚更戦など避けて通るべきではないか。セネリオの懸念はそういう側面からも間違いではないと言えた。
だが、ティバーンは一国の王だった。それのみでセネリオを支持したわけではない。
セリノスの正式な返還及び謝罪も、建前のみではなかった。だが、フェニキスという国の意志をそれ全てと言うほど、ティバーンとてお人好しではない。なんとなれば、ティバーンはフェニキスの王である。
真の目的は更にその先にある。これを機に、帝国の力を弱め、最終的には帝国とフェニキスとで対等な国交をもち、貿易をすることにあった。
フェニキスは、確かにキルヴァスに比べれば貧しくはない。自国一国のみならば、民を養う事も出来よう。だが、本当にそれだけでよいのか。ティバーンは、鳥翼族としても若い部類である。その野心、好奇心は、前代の王に比較するべくもない。襲ったベグニオン商船の船員などを、奴隷として使役することはあったが、基本的にフェニキスは、同じ鳥翼族であるキルヴァスやセリノス以外とはほぼ交流など持ってはいなかった。
四年前、初めて関わった友好的なベオク、いや、初めて言葉をまともに交わしたベオクだろうか。
彼らの持つ文化に、ティバーンはいたく興味を惹かれた。成る程ベオクは脆弱だ。だが、脆弱であればこそ時に驚くべき考えをなし、ものを作り出す。ニンゲン、などと蔑称で呼ばわり、奴隷としてのみ使役しかしたことのなかった存在は、こうも想定外の、いや、想像以上に驚きを与えてくれるのか。ティバーンは感動したのだ。知るという行為そのものに、感動し、ベオクという存在そのものに、ひどく心を動かされた。
ゆえに、四年前の、デインークリミア戦役終結の後、ティバーンは彼らとの接触や交流を、力を行使するではく、なしてみるのもよい、と思うようになっていた。
そのような発想をするラグズの王は、古今東西、おそらくティバーンが初めてで、そしてこの世界の理が歪みでもしないかぎり、ともすれば最後になるかもしれない。
ただ、その為には一度、今の帝国の体制を崩壊させる必要がある。そしてフェニキスやセリノスにとって存在として有益である皇帝神使だけは生かす。
それは、現在の帝国を滅ぼすとほぼ同義の意味も含んでいた。
ともあれ皇帝の無力ぶりを象徴するのが、今回の幽閉騒動であり、三年前のセリノスの謝罪だった。本来ならば査問機関である元老院に強すぎる権力と野心を抱かせ、神使の意志と帝国の意志とは相通じぬ、ということを大陸中に知らしめる結果になった。
だが早急に結論を出す事もあるまい、と再び彼女に助力をしたはよいが、今度は他国へとまるで侵攻するが如く、堂々と蹂躙してまわる、などと言われては、流石に神使の意志を尊重するにしても、限度というものがある。神使自身の意志がどうであろうと、敵対状態にある他国への国境侵犯は、それだけで相手に大義名分を与えてしまう。
代々フェニキスの王になるものは、霊峰アウネーベの山頂に住まうという、その国の名にもなっている霊鳥フェニキスの風切羽根を戴くと同時に、打倒ベグニオンを誓うのである。そして、それは、未だ適ってはいない、フェニキスという国が独立し、南海の島に国を作ってよりの種族の悲願といっても良いものだった。